被告熊野市の「答弁書」の対する反論・批判を主内容とする「準備書面(2)」(全6章)の第3章の前半は、つぎのとおりです。
佐藤正人
■第3 紀州鉱山に連行された朝鮮人の人数 1
原告は、「石原産業が三重県内務省に提出した1946年の報告書」(以下、「1946年石原産業報告書」とする)の誤記や虚偽の記載の事例を挙げて指摘しつつ、「信用できない内容であるが、強制連行の事実を証する文書ではある」として「甲第1号証の2」として提出したが、被告熊野市は、強制連行の事実の証としては否認し、誤記や虚偽の記載内容については「不知」と答えている。
そうしておきながら、被告熊野市は、その「不知」であるとする誤記や虚偽の記載内容について、何らの知る努力も確認の作業もしないで、その信用できない数字をそのまま事実であるかのようにしている。
被告熊野市は「「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)から読み取ることが出来る事実」という表題の「答弁書」第4被告の主張2で、
「原告らが用いる「強制連行」という用語の定義は不明である。それで,「徴用」と同義で用いられるものと理解して,以下では,その前提で論述する」
としている。
この被告熊野市の前提は誤りである。被告熊野市の歴史意識・歴史認識は、前述の「被告熊野市の「答弁書」と乙第1号証が示している問題」の末部で述べたように、悪質である。原告は、被告熊野市の悪質な歴史理解にもとづく理解にも前提にも同意できない。
被告熊野市は、誤った前提のもとに、「国民徴用令」に重大な役割を与え、
「(国民徴用令の)朝鮮への適用はさしひかえようやく1944年(原文元号)9月に実施されたもので,朝鮮人に対する徴用が導入されたのは翌年3月の下関~釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間であったことは,1947年(原文元号)7月13日付け朝日新聞(乙1)の報道の通りであった」(被告「答弁書」8頁下から3行目~9頁2行目)
として、『朝日新聞』の記事のコピーを乙第1号証とし、手書きで1947年(原文元号)7月13日とまちがった日付をつけて「答弁書」に添付したのである。
そして、原告が提出した甲第1号証の2、「1946年石原産業報告書」中の、紀州鉱山に連行され強制労働に就かされた朝鮮人労働者の人数から、入所経路に「官斡旋」とある者は強制的に連れてきたのではないと断定して、その人数を引き去り、残った「徴用」者232名と、原告らが追悼碑除幕集会で用いた資料(甲第6号証の1)に名前が記載されている被追悼者35名の姓名を、突き合せて、姓・名ともに一致する者は2名だけだとして、強制連行され紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は「2名に過ぎないのである」という結論を導き出したのである。
佐藤正人
■第3 紀州鉱山に連行された朝鮮人の人数 1
原告は、「石原産業が三重県内務省に提出した1946年の報告書」(以下、「1946年石原産業報告書」とする)の誤記や虚偽の記載の事例を挙げて指摘しつつ、「信用できない内容であるが、強制連行の事実を証する文書ではある」として「甲第1号証の2」として提出したが、被告熊野市は、強制連行の事実の証としては否認し、誤記や虚偽の記載内容については「不知」と答えている。
そうしておきながら、被告熊野市は、その「不知」であるとする誤記や虚偽の記載内容について、何らの知る努力も確認の作業もしないで、その信用できない数字をそのまま事実であるかのようにしている。
被告熊野市は「「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)から読み取ることが出来る事実」という表題の「答弁書」第4被告の主張2で、
「原告らが用いる「強制連行」という用語の定義は不明である。それで,「徴用」と同義で用いられるものと理解して,以下では,その前提で論述する」
としている。
この被告熊野市の前提は誤りである。被告熊野市の歴史意識・歴史認識は、前述の「被告熊野市の「答弁書」と乙第1号証が示している問題」の末部で述べたように、悪質である。原告は、被告熊野市の悪質な歴史理解にもとづく理解にも前提にも同意できない。
被告熊野市は、誤った前提のもとに、「国民徴用令」に重大な役割を与え、
「(国民徴用令の)朝鮮への適用はさしひかえようやく1944年(原文元号)9月に実施されたもので,朝鮮人に対する徴用が導入されたのは翌年3月の下関~釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間であったことは,1947年(原文元号)7月13日付け朝日新聞(乙1)の報道の通りであった」(被告「答弁書」8頁下から3行目~9頁2行目)
として、『朝日新聞』の記事のコピーを乙第1号証とし、手書きで1947年(原文元号)7月13日とまちがった日付をつけて「答弁書」に添付したのである。
そして、原告が提出した甲第1号証の2、「1946年石原産業報告書」中の、紀州鉱山に連行され強制労働に就かされた朝鮮人労働者の人数から、入所経路に「官斡旋」とある者は強制的に連れてきたのではないと断定して、その人数を引き去り、残った「徴用」者232名と、原告らが追悼碑除幕集会で用いた資料(甲第6号証の1)に名前が記載されている被追悼者35名の姓名を、突き合せて、姓・名ともに一致する者は2名だけだとして、強制連行され紀州鉱山で亡くなった朝鮮人は「2名に過ぎないのである」という結論を導き出したのである。