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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(210) 二題:大日寺跡の阿弥陀石仏・南北朝正閏論

2015-05-08 07:42:29 |  ・高砂市阿弥陀町

 今日は、二つのテーマ(大日寺跡の阿弥陀石仏と南北朝正閏論)です。

  大日寺跡の阿弥陀石仏

 前号で紹介した「児島範長」の五輪塔の右隣に、堂々とした阿弥陀石仏が並んでいます。高砂市教育委員会の説明をおかりします。

 石仏は、村町時代後期、永正4(1597)に一結集により建立したもので、阿弥陀仏像が彫られている。

 背面には石材を加工した際の矢内穴が残る。・・・

 簡単なこれだけの説明です。ご了承ください。

 以下は、前号の続きで、この阿弥陀像に関係がない話題です。

    南朝正閏論

 前号と合わせお読みください。

 「南北朝正閏論(せいじゅんろん)」。もうあまり聞かれなくなった言葉です。

 南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。

 ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

 第二次桂内閣の時でした。

 野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

 桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。

 以来、足利尊氏は『逆賊』とされました。

 昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。

 戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

    赤松一族の研究は戦後

 ことは足利一族だけにとどまりません。播磨の赤松一族は、足利の家来として活躍した武将です。

 となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

 したがって、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。赤松の研究は戦後になってからの事です。

 繰り返しになりますが、阿弥陀の児島範長の五輪塔には、「暦応」と言う北朝の年号が刻まれています。(no2788)

 *写真:大日寺跡の阿弥陀石仏

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高砂市を歩く(209)  大日寺の五輪塔(児島範長の墓?)

2015-05-07 07:52:27 |  ・高砂市阿弥陀町

   大日寺の五輪塔(児島範長の墓?)

 武家から政権を奪取して成立した明治新政府は、鎌倉時代に続く南北朝の動乱に対しては、当初から南朝を正統とする歴史観を固持していました。

 そのため、明治期以降、南朝に尽くした者たちが「忠臣」として顕彰されるようになります。

 こうした中で、阿弥陀村の大日寺(2009年焼失)の境内にある五輪塔が児島範長の墳墓であるとし、その認定を受けようとする動きが地元から起きました。

 児島範長は、『太平記』で南朝の忠臣と描かれた児島高徳(こじまたかのり)の父といわれています。

 児島範長は、北朝方の赤松勢と播磨で合戦して敗れ、阿弥陀の宿あたりで自害したといと言います。

   歴史はつくられた・このままでいいのか?

 この伝承をもとに、阿弥陀村のK氏は明治18年(1885)の7月と11月の2度にわたり、大日寺の五輪塔が児島範長の墓であることを認定するよう政府に上申しました。

 翌年1月に内務大臣にまで提出され、その結果、2月10日づけで山県有内務大臣から公認を受けました。

 もっとも、これが確かに児島範長の墓であるかどうかに関しては確実な文献史料はありません。

 しかも、五輪塔には「暦応」という北朝の年号が刻まれているため、当時から疑問が出されていました。

 しかし、明治政府は南朝関係の史蹟を積極的に全国に認定し、功臣に贈位するなどして国家公認の歴史観を浸透させようとしていました。

 地域社会の側でも科学的な検証のないまま、そうした国家の意向の受け皿となろうとしました。

 そうした意味において、児島範長の墳墓認定をめぐる動きは、南北朝時代史の問題ではなく、明治という時代の特質を示す興味深い事例です。

 この五輪塔について高砂教育委員会の説明には「・・・児島範長の墓と伝えられる」としています。「伝えられる」は便利な言葉です。

 (次号で「南北朝正閏論」を若干したい)(no2787)

 *写真:児島範長の墓と伝える五輪塔

 *『高砂市史(第三巻)・通史編近現代』参照

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高砂市を歩く(208) 曽根駅東高架下の道標

2015-05-06 07:09:10 |  ・高砂市阿弥陀町

   曽根駅東高架下の道標

 4月の終わりごろからだんだん風邪の症状が重くなり出しました。

 とにかく咳がひどく、2日ほど寝ることができない日が続きました。

 (5月)4日あたりから、まだ少し体が重いが回復しています。

 このブログの写真のストックがなくなりました。そのため、昨日(5日)、久しぶりに阿弥陀町を歩いてきました。

 目的の3ヵ所を地図で確かめて出かけたのですが、1ヵ所が見つかりません。

 こんな時は、いつもスマホで目指す場所を捜します。

   時代の役目を終えたが・・・

 昔の人は、こんな時は道端の、道標をたよりにしたのでしょうね。

 でも、道標はすっかり役目を終えました。

 ここの道標は、西国街道や旧浜街道に抜ける支道の分岐点に立っており、もともとはこの場所ではなく、この辺りの道路整備の時に現在の場所に移されたものです。

 でも、私たちに歴史を語ってくれます。

 西国街道から浜街道の分岐点など、南に向かう道にこれらの道標はあったのでしょう。

 高砂十輪寺道と書かれた道標や、時光寺道と書かれた道標があり、多くの巡礼者がこの前を通って行ったのでしょう。

 現在この場所は、自転車置き場となっており、上は車が行き交っています。

 南隣はJR山陽線です。時代の移り変わりを感じます。

 道標は役目を終えましたが、残しておきたい歴史の証人です。

   道標右より

  右 高砂十輪寺道

  右 時光寺道

  左 おう久わん(おうかん・街道)

  右 曽根之松道(no2786)

 *写真:曽根駅東高架下の道標

 *『東播磨の道標を訪ねて(井原卓也著)』(神戸新聞総合出版センター)

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高砂市を歩く(207) 西国街道を歩こう

2015-05-05 08:48:23 |  ・高砂市阿弥陀町

    旧、西国街道を歩こう

 市の中心部から離れると「鄙」というイメージがあるのですが、高砂市阿弥陀町は、京都・大坂と長崎を結ぶ西国街道(旧山陽道)が走り交通の要衝でした。

 戦国時代が終わり、徳川幕府が全国を統一しました。

 そして、多くの、新しい政策が実施されました。そのもっとも代表的なものは交通網の整備でした。

 幕府は、江戸を起点として五街道を本街道とし、その他の主な道を脇街道としました。

 山陽道は、江戸時代に西国街道(中国街道)と呼ばれる脇街道となりました。

 そのため、西国街道の維持管理は、幕府の政策にそったものであったが、それぞれの大名にまかされました。

 その分、姫路藩は自由に運営ができるようになったのです。

 「慶長播磨絵図」をみると、加古川の宿は、江戸時代の最初から宿駅の指定があったようです。

   西国街道は京都・大坂~長崎を結ぶ大動脈

 寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立すると、この道を大名行列が通過し加古川の宿へいそぎました。

 この道は、阿弥陀を過ぎ、加古川町を通り、東は神戸の元町商店街をぬけ、神戸大丸のある交差点に出ます。さらに、大阪・京都・江戸へと通じ、西は、長崎へと伸びた。

 阿弥陀を貫ける西国街道を歩いてみます。(no2785)

 *写真:西国街道(阿弥陀町内)

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高砂市を歩く(206) 経政神社(阿弥陀町長尾)

2015-05-04 08:50:08 |  ・高砂市阿弥陀町

   経政神社(つねまさじんじゃ・阿弥陀町長尾)

 高御位山の南麓の長尾地区に平家伝説が残る地区があります。話は、こうです。

 一の谷の戦いで平家一門は敗れ、多くは海にのがれました。

 平経盛(清盛の弟)の子、但馬の守・経政は、ついに船に乗り遅れて、仕方なく浜辺を西逃れました。どうしても、逃げることができません。

 とうとう、魚橋村の西はずれから道をかきわけ、山奥に達し腹を切って亡くなったといいます。・・・・

   鹿島神社参拝の時にお寄りください

 阿弥陀町長尾の西部の但馬の守地区で、木立の中を進むと鳥居奥の階段の先に社殿が現れます。

 この神社が平清盛のおいに当たる経政(つねまさ)をまつった神社といわれています。

ともに逃れてきた臣下たちが祠(ほこら)をたてたといいます。

 笛の名手で知られる敦盛は実弟。

 小さな杜(もり)にまつわる数々の伝説に接し、鳥居をくぐると印象が大きく変わって見えるものです。

 地徳の鹿島神社の近くです。少し足を伸ばしてみませんか。

 集落では毎月第1、3日曜に、住民が当番制で洗い米と水、塩を神社に供えています。
地区には経政の鎧が残る家もあるそうです。(no2784)

 *写真:経正(つねまさ)神社(阿弥陀町長尾但馬守地区)

 *神戸新聞参照

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高砂市を歩く(205) 地徳・鹿島神社

2015-05-03 09:21:23 |  ・高砂市阿弥陀町

    地徳・鹿島神社

 前号で北山の鹿島神社を紹介しました。順序として地徳・鹿島神社に書きたいのですが進学の神としてお参りの多いこの神社について『高砂市歴史』を読んでみましたが記述が全くありません。

 以下の記述は、神戸新聞の「社寺巡礼」からその一部をお借りしまします。

   創建は奈良時代?

 奈良時代の創建と伝えられ、「戦の神」である武甕槌命(たけみかつちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)が祭られている。戦国時代の武将が出陣の際、戦勝祈願に立ち寄った伝承などから、一人一願心を込めて参れば必ずかなう-と崇敬されるようになった。

 本殿に着くと、志望校や国家試験の合格、就職、健康などを祈る絵馬や彩り豊かな千羽鶴が目を引く。

 右手には竹の棒が山積みに。参拝者が願いを書いて持ち寄ったもので、年齢の数だけ持ち、本殿周辺を回って一本ずつ奉納箱に納めれば、願いがかなうという。「御堂廻り」というしきたりだ。・・・・

 参道の両脇には名物のかしわもちの店が並ぶ。地元・地徳の村人が神社に供えたのが起源という。帰り道に、出来たてのかしわもちをほおばると、ほのかなあんの甘さと参詣の余韻を味わえる。(以上、神戸新聞の一部より)

    縁起を考える!

 神社の縁起にあまり目くじらを立てる必要はないのですが、阿弥陀町の北山・長尾・地徳は江戸時代の初めにできた新田であると書いたばかりなのでちょっと気になります。地徳は他の二村より更に若干遅れて成立しています。

 と言うことは、それ以前(江戸時代以前)に立派な神社があったとは考えられません。

 どうやら、地徳・鹿島神社が現在の隆盛を誇るようになったのは、どう考えても最近のことで、仕掛けは、桜の景色と進学の神様にあるようです。

 なお、北山と地徳の鹿島神社はともに独立した神社で、兄弟関係はありません。(no2783)

 *写真:地徳・鹿島神社

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高砂市を歩く(204) 北山鹿島神社の伝承

2015-05-02 09:14:26 |  ・高砂市阿弥陀町

   北山鹿島神社の伝承

 神社の説明板からおかりします。(文章は少し変えています)

 北山鹿島神社は、建御雷(たけみかずち:鹿島神)をお祀りしています

 一町あまりの神域は、姫路藩主(松平忠明)の寄進によるものです。

 神社の建設は正保二年(1645)のことです。

 創建者は、当の開拓者・小島(駒井)利兵衛です。

 ある夜、利兵衛の枕頭に白髪の翁があらわれ「この地の田子の池を中心として開拓すべし、そうすれば、村は栄えるであろう・・・」そう告げるとスゥ~と姿を消したのでした。

 不思議の思った利兵衛は、数名の仲間と開拓の鍬をふるいました。

 さらに、その年の秋に鹿島の神霊をお祀りせよとお告げを聞いた者があり、このことを藩主にお伝えすると藩主も驚き調査をされました。

 その調査中の時のことです。

 突然、東の山より角には光り輝く玉を頂いた牡鹿と牝鹿があらわれ、その玉を今の社の地に落とし、西の方に走り去り姿を消したのです。

 検使(調査官)から、この話を聞いた藩主は深く感動して鹿島神社を創建したと言います。

 以来、村には不思議なめでたいことがしばしばおこりました。

    北山からの戦死者はゼロ

 次の事もそれらのひとつでしょう。

 本殿の近くに「改築記念碑」があります。そこに次のような文章があります。

 一部を読んでみます。

 「・・・昭和31年、新聞各紙に日清・日露戦争より太平洋戦争の間に多くの兵士が激戦地に送られましたが当町(阿弥陀町北山)出兵者から一名も戦死者を出していません・・・」と、大きく取り上げられ話題になりました。

 そういえば、北山共同墓地には戦没者の墓(星印のある墓)はありません。

 北山の鹿島神社にはすごい御利益があったようです。(no2782)

  *写真:北山鹿島神社

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高砂市を歩く(203) 長尾新村・地徳新村誕生

2015-04-30 09:54:49 |  ・高砂市阿弥陀町

  長尾新村は寛文五年(1665)に誕生

 長尾新村は、寛文元年(1661)東阿弥陀村の松本新右衛門が願い出て、高御位山の麓の原野を開発して成立した村です。

 元禄十四年(1701)頃書かれたと思われる「松本家由緒」にその経緯が詳しく記されています。

 初めて年貢米を上納したのは寛文五年(1665)のことであり、寛延三年(1750)の長尾新村明細帳には寛文5年から貞享元年(1684)まで8冊の検地帳が存在したことが記されているので、村の成立は寛文五年ということでしょう。

 開発以前からあった彦次郎太池、長池、皿池の用水を利用し、自村でも寛文九年に姫路藩に願い出て、その援助のもとで新池、私池を築造しています。

   地徳新村は寛文期から元禄期に成立か

 地徳新村は両村からやや離れて高御位山の西部の谷間を開発した村で、阿弥陀の人、黒田某が開拓して移住したことに始まるとされています。『増訂印南郡』に、その年次記されていません。

 元禄郷帳に「西阿弥陀村枝郷」の注記が付されて村名が見えるのが初出であるので、寛文期から元禄期の間に成立した村であると推測されます。

 以上の三ヵ村(北山・長尾・地徳新村)は、何れも17世紀の後半になって開発され、東阿弥陀村、西阿弥陀村から分かれて独立した村です。

 農業用水は、谷地や傾斜地をせき止めた溜め池に依存しており、本村とは取水や山の入会権を巡って争論がしばしば起きています。(no2780)

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照

 *写真:高見位山山頂からの長尾新村(現:阿弥陀町長尾)、写真中央の池の向こうが北山新村(現:阿弥陀町北山)

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高砂市を歩く(202) 北山新村②・慶安5年(1662)から北山新村に 

2015-04-29 08:23:45 |  ・高砂市阿弥陀町

 寛延元年(1748)に作成された駒井家に伝わる由緒書には、さらに詳しく、次のように書かれています。

 ・・・駒井氏の先祖はもと武士で東阿弥陀村に帰農した篤農家でしたが、道誓が高御位の東の中塚山麓を開墾して正保二年(1645)から同じ心を持つ十余家と共に移り住みました。

 新田場は、三年間は年貢免除地であったが「隠田」でないことを示すために姫路藩主に願い出て稗10石を貢納しました。

 (*隠田:(かくしだ・おんでん)・・・中世・近世に隠して耕作し、年貢等を納めない土地の事)

 3年たって検地を受け、37石の村高を持つ北山新村となりました。

 また、草むらに井のかたちがあって、水がよかったので掘り広げ堤をつくって溜め池もつくりました。

    駒井家北山新村の庄屋に

 道誓は、慶安二年(1649)に亡くなりましたが、その子・源太郎が家を継ぎ、領主から庄屋役を命じられました。

 道誓は、晩年、理兵衛と称したので駒井家では当主は代々、源太郎を名乗り、隠居後は理兵衛と称しました。

 寛延元年が道誓の百回忌に当たるので墓を修理し地蔵菩薩の石像と顕彰碑の石塔を建てました。

 元文二年(1737)の北山新村明細帳には正保三年(1646)、慶安五年(1652)、承応二年1653、寛文九年(1669))の検地帳が残されています。

 それによれば、第一次榊原時代の慶安五年(1652)から北山新村と称するようになったと記されています。(no2779)

 *『高砂市歴史(第二巻)、通史編近世』参照

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高砂市を歩く(201)  北山新村①、正保二年(1645)に開村

2015-04-28 09:50:35 |  ・高砂市阿弥陀町

   北山新村

 高御位山の麓の阿弥陀町北山・長尾・地徳を歩いてみます。

 この三ヵ村の新村は慶長期の開発よりやや遅く、高御位山の南麓に広がる原野を開墾して作られた新村で、用水は溜め池にたよっていました。

   江戸時代の初めは、日本の大開拓時代

 江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、その理由を大石慎三郎氏は、次のように説明されています。

 「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約60~70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)

 つまり、戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたというのです。

     北山新村、正保二年(1645)に開村

 北山新村も、この時代に開村されています。 

 北山新村の開発については東阿弥陀村の植原道誓という人物が荒れ地を開墾して三町歩の新田を開き、耕作の便宜のため正保二年(1645)に新田の傍らに家を建てて移住たところ、付き従う者が十数家あり、その集落が北山新村の始まりであるといいます。

 また、植原氏は、後に「駒井」氏に改めたといわれています。(『増訂印甫郡誌』)。

 *『高砂市史(第二巻)、通史編・近世』参照(no2778)

 *写真:北山新村開基、植原道誓の墓

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高砂市を歩く(199) アマンジャクの伝承

2015-04-26 07:36:47 |  ・高砂市阿弥陀町

     アマンジャクの伝承

 今日も高御位山の磐座(いわくら)の話です。

 ・・・・・

 昔、大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)の二神が、一夜のうちに石の宝殿をつくりあげようと相談されました。

 さっそく、汗を流し、巨岩を切り抜いて細工をはじめられ、石屑が、辺り一面に飛び散り、どうにも始末が負えなくなりました。

 そこへ、へそ曲がりのアマンジャク(天邪鬼・アマノジャク)がやってきました。

 アマンジャクは、ずいぶんつむじ曲がりですが、親切なところもありました。

 二神のそばに来て、「その石屑は、このアマンジャク様が捨てて参りましょうか・・・」といいました。

 二神は喜んで「それでは、南の海に投げ込んでくれ・・・」と頼みました。

 アマンジャクは、大きな袋に石屑をいっぱい詰め込んで、スタスタと出て行きました。

 へそ曲がりのアマンジャクのことです、南へ行かず反対に北の方へ急ぎました。

 「へ、へ、へ・・・これを、海にすてては俺様の名がすたる。高御位山のてっぺんへすてるのさ・・・」と独り言を言いながら道を急ぎました。

 そうしているうちに、さすがのアマンジャクも背の石屑の重さが、だんだんこたえてきました。

 息が切れ、疲れてしまいました。

 あまりのしんどさに、一息ついて、水を見つけては喉を潤しました。

 しばらく行くと、また息が切れて水を飲みました。

    七回休息し、石屑を山頂へ

 一里の道を行くのに七回も休んで水を飲みました。

 七回目に、今の成井(なるい・現:加古川市志方町西志方)」(高御位山の麓の村)の井戸の水で、喉を潤しました。

 この水は何とも言えない美味しい水で、今までの疲れもいっぺんにふきとんで、再び元気が出てきました。

 そして、一気に高御位山の頂上まで、重い石屑を担ぎあげたということです。(no2776)

 *挿絵:アマンジャク(天邪鬼)(インターネットHPより)

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高砂市を歩く(198)  高御位山の磐座(いわくら)

2015-04-25 06:26:20 |  ・高砂市阿弥陀町

     高御位山の磐座

 印南郡の人々が、最も早く神を祭った場所は高御位山の山頂であったと思われます。

 もともと日本人は、神を祭る場所として神社というものを持ちませんでした。

 神社などという建造物の無い時代ですから当然のことです。

 天から降臨した神々は、もっぱら樹木や岩石に宿ると考えられました。

 神が樹木などに宿った場所は「ひもろぎ(神籬)」といいます。

 岩などに宿った場所を「磐座(いわくら)」と呼びました。

 そして、家も田も潰してしまう豪雨。

 稲の花を飛ばす暴風。

 古代人は、森を焼く雷、恐ろしい火山の爆発など、すべては山からやってくる神の仕業であると考えていました。

 山は、弥生時代以来、大切な崇拝の対象となりました。

 古代人は、これらの神の宿った「ひもろぎ」「磐座」を神として祭りました。

 高御位山山頂は、形の良いまさに天井から神々の降りてこられる磐座にふさわしい場所でした。

    もとは「たかみくら大神」

 高御位山の山頂の磐座は、このあたりでは最も優れた磐座として知られています。

 後世、高御位山の神は大貴己命(おおなむちのみこと)とされていますが、もともとは単に、この磐座に宿られた神、つまり「たかみくら大神」として祭られたと想像します。(no2775)

 *写真:高御位山頂の磐座(山麓の集落は阿弥陀町長尾・北山、HPより)

 

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高砂市を歩く(197) 高御位山と牛島

2015-04-24 11:12:06 |  ・高砂市阿弥陀町

  高御位山の神様と牛山の神様との「けんか」の伝承です。

 *文中の牛島は、高砂沖に浮かぶ牛島(ほうらく島)のことです。

 現在、地図では上島(かみじま)となっています。

    高御位山と牛島

 高御位山は、このあたりで一番高い山(304メートル)です。

 ところが、大昔、それほど高い山ではなく、牛山という山と仲良く並んでいたということです。

 ある時のことです。

 高御位山の神様と牛山の神様が大けんかをしました。

 その時、牛山の神様は負け、はるか沖へ投げ飛ばされてしまいました。

 この時から、高御位山の神様の勢いが、一段と強くなりました。

 そして、ついには、この地方で第一の高い山となったのでした。

 一方、負けた牛山は、海の中にポツリと、とり残され「牛島」と呼ばれるようになりました。

 その上、形も、背がだんだん低くなり「ほうらく」をふせたような形成りました。

 (ほうらく・・・豆などを炒る時に使う土製の器)

 いまでも、播磨灘に、とりのこされるように浮かんでいます。

 「ほうらく島」は、この牛島のかわりはてた姿だということです。(no2774)

  *『郷土の民話(東播磨編)』(郷土の民話・東播地区編集委員会)参照

  *写真:高砂港から見た上島(かみじま)

    昨年の秋の夕暮れ時撮影

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高砂市を歩く(196) 「おこぜ」と高御位山

2015-04-24 08:13:33 |  ・高砂市阿弥陀町

 高御位山の山麓の集落、阿弥陀町北山・長尾・地徳を散策します。

 その前に、高御位について少し書いておきます。

   おこぜと高御位山

 標高304メートルの「高御位山」は山型が富士山に似ているため「播磨富士」とも呼ばれます。

 「高御位」とは神霊のいる御座のことで、ふる里の先人は、この「高御位山」自体を神様として崇拝しました。

 また、播磨灘の航行上重要な目印となったので、漁業者は山の神様が喜ばれたと伝えられる「おこぜ」を山頂の伺へ供える風習を大正時代まで続けていました。

  「おこぜ」を供える

 むかし、高御位山の頂上には大きな灯ろうがありました。

 この灯は、播磨灘で漁をする人々に灯台の役割を果たしていました。

 ですから、漁師は海からあがると感謝の心をこめて「おこぜ」を高御位神社に供えました。

 では、どうしてあの醜い「おこぜ」をお供えたのでしょう。

 「おこぜ」は、たいそう美味しく山の神は「おこぜ」が大好きでした。そのため、おこぜをお供えするとたいそうよろこばれる」ということでした。

 また、病気をした時、願をぜひ聞きとどけてほしい時など、おこぜを持っておまいりすると、必ず、かなえてくださいました。

 大正5年に刊行された『印南郡誌』を読んでおきます。

 「・・・(江戸時代の終わりから明治時代の初めの頃)までは、沢山の船頭がこの高御位山へ参ってきた。

 そうしてどうした理由か、この時きっとおこぜを持ってきたという・・・」(no2773)

 *『ふる里の山名復活(松本文雄著)』(創出版)、『印南郡誌』参照

 *写真:おこぜ

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高砂市を歩く(195) 裏  VS  表

2015-04-23 08:40:44 |  ・高砂市阿弥陀町

   どうでもよいことですが・・・

 中学校の頃、といっても ずいぶん昔の話になりました。

 昭和30年から32年が、私のそれに当たります。

 その頃、地理の教科書では、日本海側を裏日本、太平洋側を表日本と言っていました。

 現在、これらの表現は消え、気候区分も「日本海岸気候区」「太平洋海岸気候区」と言っています。

 裏には、どうしてもマイナスのイメージがつきまといます。

 先日から阿弥陀町を歩いています。前号では、阿弥陀町南池を歩きました。

 そこから北を眺めると、高御位の山塊が壁を作り繋がっています。

 どうでもよいことを考えています。

     裏  VS  表

 「高御位山の表は阿弥陀町側から見る山を言うのだろうか。志方町側から見る山をいうのだろうか・・・」と。

 どうでもよいことですが、こだわってみると気になります。

 このブログ(ひろかずのブログ)を始めたころ、志方町へ毎日のように出かけました。志方町側から見る高御位山を当然のように「表」と考えていました。

 いま、少し違って見えかけています。高御位の山麓の北山・長尾・地徳の集落を歩いてみたくなりました。

 「この地域は、江戸時代の新田としてできた村」と言うこと以外に、何の知識もありません。

 『高砂市史』を読むことにします。そして、地図を片手にカメラを持って出かけます。

 今頃、この辺りは新緑で埋まっていることでしょう。ウグイスが鳴いているかもしれません。楽しくなってきました。(no2772)

 *写真:阿弥陀町側から見る高御位山の風景

 

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