今日は、二つのテーマ(大日寺跡の阿弥陀石仏と南北朝正閏論)です。
大日寺跡の阿弥陀石仏
前号で紹介した「児島範長」の五輪塔の右隣に、堂々とした阿弥陀石仏が並んでいます。高砂市教育委員会の説明をおかりします。
石仏は、村町時代後期、永正4(1597)に一結集により建立したもので、阿弥陀仏像が彫られている。
背面には石材を加工した際の矢内穴が残る。・・・
簡単なこれだけの説明です。ご了承ください。
以下は、前号の続きで、この阿弥陀像に関係がない話題です。
南朝正閏論
前号と合わせお読みください。
「南北朝正閏論(せいじゅんろん)」。もうあまり聞かれなくなった言葉です。
南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。
ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。
第二次桂内閣の時でした。
野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。
桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。
以来、足利尊氏は『逆賊』とされました。
昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は辞職に追い込まれるという事件もおきました。
戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。
赤松一族の研究は戦後
ことは足利一族だけにとどまりません。播磨の赤松一族は、足利の家来として活躍した武将です。
となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。
したがって、戦前赤松一族の公平な評価・研究はなされませんでした。赤松の研究は戦後になってからの事です。
繰り返しになりますが、阿弥陀の児島範長の五輪塔には、「暦応」と言う北朝の年号が刻まれています。(no2788)
*写真:大日寺跡の阿弥陀石仏