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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(194) 池大神社②・南池のルーツは?

2015-04-22 09:02:56 |  ・高砂市阿弥陀町

    南池(阿弥陀町)のルーツ

  前号で紹介した。池大神社の説明の続きに、八柱社(はっちゅうしゃ)と祇園社の説明があります。読んでみます。

 (写真右:本殿の池大神、中:八柱社、左:祇園社)

 ◇八柱社は、スサノオノミコトと御子神(みこがみ)八柱(八人)がお祀りされている。

 祭日は8月31日・9月1日である。

 ◇祇園社(ぎおんしゃ)

 祭人はスサノオノミコトである。祭日は7月6日と7日である。6日には子供相撲大会がある(以上、池大神社の説明板より)

 「八柱社」とは、なじみのない神様(神社)なので、HPで調べてみました。

 ・・・京都の八坂神社(祇園社の祭神はスサノオノミコトであり、八柱御子神(やはしらのみこがみ)もお祀りしています。

 八柱社とは、スサノオノミコトの8人の子供たちをお祀りしている社のことです。(HPより)

 と言うことは、池大神の説明にある八柱社も祇園社も、京都の八坂神社に繋ながる祭神です。

 魚橋村の守護神は、八坂神社から勧請した神様で、地元ではもっぱら祇園さんと呼んでいます。

 『印南郡誌』には「・・・姫路城主であった池田輝政により干拓され、阿弥陀・魚橋の地より人々が移住し新村(新池村)が形成した。この新池村は寛永年間(1624~1644)、北池村・南池村の二村に分離した・・・」とあります。

 ここに八坂神社(祇園さん)があることは、入植した魚橋の人々が魚橋村の祇園さんを勧請したということでしょう。

 南池のルーツの証です。(no2771)

 *写真 右端:池大神、中:八柱社、左:祇園社

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高砂市を歩く(193) 池大神社(阿弥陀町南池)①

2015-04-21 09:14:46 |  ・高砂市阿弥陀町

 南池集落の池大神社に来ています。池大神社と言いながら、近くに池が見当たりません。

   池大神社(いけだいじんじゃ)①

 神社に説明がありました。読んでみます。

 「当社は歴史的に見て神社の地が池の小島であった平安時代に如龍三社(雨乞い・百姓の)神様として)創建されたと考えられている。

 元文三年(1786)、現在のように改築され、池大神社は厳島姫とされている。

 この神社は南池の守護神、すなわち、産土神(うぶすながみ)として人々に敬われ、信仰も厚く、霊験あらたかな所である。一般に明神さんと敬されている。

 祭日は七月十四・十五日である・・・」

  南池村は、「あさがら池」を埋め立てた新田

 以下は、「高砂市を歩く(189)」の復習です。

 南池地区は『播磨風土記』のいう「池の原」のようです。

 現在の阿弥陀町中筋から南池・北池のあたりに、古代から江戸時代初めの頃まで、大きな池がありました。

 慶長10年(1605)の頃、池田輝政は、姫路藩の治水・灌慨のための土木工事を行って、農業生産力の増大を図っています。

 加古川右岸(西側)の灌漑用水として、加古川から水を引く上部用水(うえべようすい)を整備しました。

 升田村(現:加古川市東神吉)上流の上部(加古川市平荘町)で加古川から取水し、本流は神吉村(かんきむら)を通って神爪村(かづめむら)、魚橋村、南池村を経て曽根村、魚崎村に至りました。

南池村の開発は、この上部井堰(うえべいせき)の開発と同時に行われたものと思われます。

 この時、「あさから池」は、阿弥陀村や魚橋村の人々が入植し、あさがら池を埋めたて北池、南池の二村をつくりました。

 江戸時代初期の風景を想像してみましょう。(no2770)

 *写真:池大神社(阿弥陀町南池)

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高砂市を歩く(192) Suguru Sasaki

2015-04-20 10:57:42 |  ・高砂市阿弥陀町

 高砂市阿弥陀町魚橋は、月の沙漠の作曲者の「佐々木すぐる」の故郷です。

 「高砂市を歩く(83)・佐々木すぐる」でも少し紹介しましたが、あるところで次のような拙文を書きました。お暇な時にでも「高砂市を歩く(83)」と合わせお読みください。

 いま、阿弥陀町魚橋を散歩しています。ここでいったん魚橋を離れて次号から他の阿弥陀町を散策します。

    Suguru Sasaki

 A Composer of the Children’s Song,

 Tsukino Sabaku (A night desert under the moon)

 A long time ago, in a distant land.

 Some camels were traveling in the desert at night under the moon

 (from nursery song, a night desert under the moon)

 Most Japanese children have sung this children’s song, Tsukino Sabaku, at least one time in their life. Tsukino Sabaku was a poem which Masao Kato published in Shonen Club issued in March of 1923. Suguru Sasaki composed it and this song became very popular.

 At that time, the melachonly songs Kare Susuki (withered Japanese pampas grass) and Sendo Kouta (a boat captain in Japanese ballad songs) composed by Ujo Noguchi were popular. That year, The Great Kanto Earthquake (1) occurred on September 1st in 1923 and many people died. After this Big Earthquake, the cheerful song Tukino Sabaku became popular instead of the sad melodies like Kare Susuki and Sendo Kouta. In Japan, we visualize the Tottrori Sand Dunes when we hear the word DESERT. But, Tsukino Sabaku was written imaging the Onjuku Seashore (Chiba Pref.) at which Masao Kato stayed for medical treatment.

  Suguru Sasaki was born in Amida Cho (Takasago City) as his father, Genzo’s second son in 1892. Suguru graduated from Amida Elementary School and went to Himeji Teacher’s College. Furthermore, he went to Tokyo Music Academy (now Tokyo Art University) and after graduation, he became a teacher at Hamamatsu Teacher’s College (Shizuoka Pref.). In 1922, Suguru came to Tokyoin order to concentrate on composition. In 1923, he composed Tsukino Sabaku and established his status as a composer with this song.

 The time changed to the Showa period. Children’s Culture Movement which prospered in the Taisho Democracy(2) lost its energy and the oppression of liberalism began to expand.  The management of a music association decided that children’s songs were for children only and the intellectual level of those songs were low. Suguru Sasaki therefore left from the Children’s Song Movement at that time.

 In 1945, the most popular song was Oyamano Suginoko (a child of cedar in the mountains) which Suguru Sasaki composed. The first verse which children sung was as follows:

  Once upon a time

  Beside a forest of oak

  There was a small bare hill

  The hill was a laughingstock 

  Oh! A cedar sapling ! Get up

  The smiling sun called to a cedar sapling

 After the Second World War, the 6th verse of this song was adapted. Before this, the 6th verse of the old song was as follow:

  I want to become fine a soldier

  Let’s resolve loyalty to Japan and make filial piety to our parents

  Japan is the country which the sun rises up

  Let’s protect this Japan

  Let’s protect this Japan

 The words of this song called on children to join the war effort. Japan accepted the Potsdam Declaration in 1945. The Second World War ended in defeat. The new constitution was made known to all. Japan declared to the world that the Japanese people forever renounced war as a sovereign right of the nation and as a means of settling international disputes.

 The teachers reflected on having cooperated with the War effort through education and formed the Japanese Teacher’s Union. The Teacher’s Union decided to never again send students to the battlefield. Suguru Sasaki composed for the Teacher’s Union at this time.

 I want to make a sidenote here. There was an article in the newspaper on October 23 in 1996. Onjuku (Chiba Pref.) seashore which is known as the area   connected to the desert of Tsukino Sabaku is in ecological trouble due to the excrement of dog and dumping of garbage. I believe action must be taken to preserve this beautiful strip of nature.

  Notes

 (1) This was the democracy movement of the Taisho Era (1912~1926). Democratic thinking spread in this time.

  (2) This was the big earthquake that hit the Kanto district September 1st in 1923. The death toll was about 150.000 people.(no2769)

 *picture:  Suguru Sasaki

 

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高砂市を歩く(191) 地蔵盆幻想

2015-04-20 09:30:44 |  ・高砂市阿弥陀町

 阿弥陀町魚橋は、石の宝殿に近く石財が豊富でした。そして、近在には多くのすぐれた石工がいたようです。たくさんの石仏が残されています。

 先日、およそ50年ぶりに魚橋山の「祇園さん」に寄りました。写真のお地蔵さんの撮影のためです。

 祇園さん(八坂神社)のすぐ西の階段の突き当たりの所にある地蔵さんです。

 でも、今日のブログは、石仏の話ではありません。

     地蔵盆幻想

  少し余話をさせてください。

 魚橋は、母の故郷でした。

 そのため、夏休みの半分ほどは魚橋のおばあちゃんの家で過ごしました。

 8月24日の地蔵盆は、とりわけ思い出が残っています。

 この地区では、地区のお地蔵さんを子どもたちが、大人の手を借りずにお祀りをする習慣がありました。

 地蔵さんの数が多いので、多くの地区に分かれて男女別にお地蔵さんを担当しました。

 私もある地蔵さんを担当した地区の子供会に入れてもらいました。

 当時、中学生が頭(かしら・リーダー)・小頭(こがしら・副リーダー)等になり、地蔵盆を担当しました。

 まず、各家をまわって寄付にまわります。「**さんの地蔵さんに参ってんか・・・」と言うと、どの家からも10円か20円の寄付がありました。お店をまわると50円の寄付がありました。

 それで、お菓子等を買って8月24日、お地蔵さんに供えます。

 もちろん、数日前から頭の指導で、地蔵さんのまわりの掃除をしまいた。

 ササもまわりに立てかけました。

 当日の夜は家族の者がそろってのお参りがありました。

 翌日、午前中は片付けです。昼は頭(リーダー)の家に集まり、お母さんたちがカレー等を作ってくれ、お供えをみんなで分けました。

 そして、地蔵盆の行事は終わります。

 すっかり、静かになったお地蔵さんの辺りには、真っ赤なトンボが飛んでいました。

 地蔵盆が終わると夏休みももうすぐ終わります。宿題が気になったことも思い出です。

 こんな子どもの行事も最近なくなったようです。

 おじぞうさん!さびしいね・・・!(no2768)

 *写真:祇園さんのお地蔵さんたち(この地蔵は、女の子の担当でした)

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高砂市を歩く(190) 上部用水と「あさがら池」(2)

2015-04-19 10:46:53 |  ・高砂市阿弥陀町

   上部用水と「あさがら池」(2)

 「高砂を歩く(188)・魚橋山狭」の復習です。

 ・・・地蔵山の北で山塊はいったん切れ、約200メートルのほどの低地となっています。そして、その北に魚橋集落にそって魚橋山が立ちはだかります。

 古代から播磨平野の南部(中心部)を行くには、この魚橋山狭を通過しなければなりません。この山狭部に山陽道が走りました。

 山陽道は、江戸時代に脇街道・西国街道となりましたが、日本の最も大切な道としての役割は続きます。

 明治時代に至り、魚橋山狭にJRが建設されました。さらに、新しく国道二号線が建設されました。

 さらに、さらに現在は、姫路バイパスがはしり、高砂西ランプが設けられました・・・」

     水は魚橋山狭を流れる

  この魚橋山狭は、東西を結ぶ重要な交通路としての役割だけではありません。

 魚橋集落の西の端に「海老山」(写真)という小さな山塊があります。この海老山には次のような伝承があります。

 ・・・昔、加古川が氾濫すると、この海老山の麓まで川の水が流れてきて、そのたびに多くの海老(えび)がはねていたので、このような山名が付けられた・・・

 つまり、加古川の氾濫した時などは、水は魚橋山狭を通過して「あさがら池」の地にまで押し寄せたようです。

 上部用水は、魚橋山狭の少し低いところを流れています。

 集落は、魚橋山の麓の少し高いところに、へばりくように東西に繋がっています。

    サイフォンで

 なお、魚橋集落と神爪集落(高砂市米田町)の間に法華山谷川が流れています。

 東の神爪の方から流れてきた上部用水は法華山谷川にぶつかります。上部用水はこの所で法華山谷川の下に潜り込んでいます。

 サイフォンの技術が使われています。(no2767)

 *写真:海老山(魚橋西の歩道橋から撮影・写真の右の道が旧西国街道)

   

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高砂市を歩く(189) 上部用水と「あさがら池」(1)

2015-04-18 08:22:23 |  ・高砂市阿弥陀町

  上部用水と「あさがら池」(その1)

 『播磨風土記』の「池の原」の記述を口語訳で読むことにします。

 「・・・山の西に原があります。名は池の原と言います。池の原の名のいわれは、原の中に池があります。故に(ゆえに)、池の原と言います。・・・

 この池のあった場所は、現在の阿弥陀町中筋から南池・北池のあたりのようで、記録によると、中世では伊保荘の用水池として残っていたようです。

  北池村・南池村は、「あさがら池」を埋め立てた新田

 時代を下ります。慶長10年(1605)は、池田輝政が高砂築城を開始した時期です。

 輝政は、姫路藩の治水・灌慨のための土木工事を行って、農業生産力の増大を図っています。

 加古川右岸(西側)の灌漑用水として、加古川から水を引く上部用水(うえべようすい)を整備しました。

 升田村(現:加古川市東神吉)上流の上部(加古川市平荘町)で加古川から取水し、神吉村(かんきむら)を通って神爪村(かづめむら)、魚橋村、南池村を経て曽根村、魚崎村に至る本流と、神吉村から分流して米田村、塩市村から流れる支流があり、印南郡村々へ農業用水を供給しました。

 北池村・南池村の開発は、この上部井堰(うえべいせき)の開発と同時に行われたのでしょう。

 不安定な溜池に依存していた地域は、上部井用水で安定して灌漑ができるようになりました。

 「あさから池」の名は、池は浅く、日照りですぐ枯れる池の意でした。

 この地域は、「あさがら池」からの灌漑を上部井用水による灌漑に切り替えるとともに阿弥陀村や魚橋村の人々が入植し、あさがら池を埋めたて北池、南池の二村をつくりました。(no2766)

 *『高砂市史(第二巻・通史近世編)』、『上部井土地改良区誌』(上部土地改良区誌編さん委員会)参照

 *上部用水(魚橋・姫路バイパス出口付近)

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高砂市を歩く(188) 魚 橋 山 狭

2015-04-17 08:21:40 |  ・高砂市阿弥陀町

  騒音の理由は?

 前号「高砂市を歩く(187)・地蔵山の阿弥陀三尊像」で、地蔵山について次のように紹介しました。

 ・・・この「騒がしい」のには少し閉口です。山頂の阿弥陀様も、ずいぶんお困りのようです。

 おそらくこの山頂の阿弥陀様は日本で一番ウルサイ場所にある仏様ではないかと想像します。都会の真ん中のお寺でもこんな具合ではないでしょう。・・・・

   魚 橋 山 狭

 地蔵山の山頂に立てば、その騒音の理由はすぐにわかります。

 魚橋地蔵山は南へ低い山並みが続いて海岸に至っています。

 この山塊は地蔵山の北でいったん切れ、約200メートルのほどの低地があり、再び魚橋集落にそった北の石の屏風のような魚橋山が立ちはだかります。

 この、200メートルほどの場所は「山狭」で、「魚橋山狭」と名付けておきます。

 古代から播磨平野の南部(中心部)を行くには、この魚橋山狭を通過しなければなりません。

 古代では、京都・奈良と九州の太宰府を繋ぐ山陽道がここを走りました。

 山陽道は、江戸時代に脇街道・西国街道となりましたが、日本の最も大切な道としての役割は続きます。

 明治時代に至り、魚橋山狭にJRが建設されました。

 さらに、新しく国道二号線が建設されました。

 さらに、さらに現在は、姫路バイパスがはしり、高砂西ランプが設けられています。

 騒音は当然です。

 地蔵山に出かけた日の午後は雨も上がりましたが、雨雲は低くたれこめていました。

 車や鉄道の音は雲に押さえつけられ、また魚橋山にぶつかった騒音は、33メートルの地蔵山の上からおしよせているみたいでした。

 低く雲が垂れこめた日に地蔵山に登ってみませんか。すごい、騒音を体験できますゾ!・・・(no2765)

 *写真:地蔵山山麓北側(魚橋地狭)の風景(手前の高架橋・姫路バイパス、その横・JR、歩道橋のある道・国道2号線、見えないが魚橋山の麓・旧山陽道)

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高砂市を歩く(187) 地蔵山の阿弥陀三尊像

2015-04-16 07:31:56 |  ・高砂市阿弥陀町

  地蔵山の阿弥陀三尊像(阿弥陀町魚橋)

 4月13日(火)、雨も昼過ぎにはあがりました。

 地蔵山(阿弥陀町魚橋)の山頂に来ています。

 堂々とした阿弥陀三尊像(写真)があります。

 伝承ですが、その昔(室町時代中後期頃)、1人の行脚僧が立ち寄り、山の上の平岩に阿弥陀三尊を刻まれ安置されたといわれています。
 その尊像の霊験はあらたかで、特に子供の夜泣き、疳の虫(かんのむし)にご利益があると遠方からも多くの人が参拝に訪れました。

 子供を助けてくれることから、尊像を刻まれた行脚僧を地蔵菩薩の化身と信じ、この山を「地蔵山」と呼ぶようになりました。
 尊像は、一石五輪塔(室町時代中後期)、承応二年(1653)と明暦二年(1656の銘がある高さ215㎝の五輪塔と共に今もなお山の上にあります。

 なお、三尊像の前の供養台は小型石棺が利用されています。
昭和3年、篤信者達がこの聖地に四国八十八カ所霊場写しを安置し、山麓にお堂を建て現在に至っています。
   仏様も、騒音にウンザリ!

 それにしても、この山頂の「騒がしい」のには少し閉口です。

 阿弥陀様も、ずいぶんお困りのようです。

 調べて言うのではないのですが、おそらくこの山頂の阿弥陀様は日本で一ウルサイ場所にある仏様ではないかと想像します。

 都会の真ん中のお寺でもこんな具合ではないでしょう。

 これも、歴史的風景です。

 次回に、説明することにしましょう。(no2764)

 *写真:阿弥陀三尊像(室町時代中期・阿弥陀町魚橋・地蔵山山頂)

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高砂市を歩く(186) 土田家住宅(旧魚橋郵便局)

2015-04-15 08:57:01 |  ・高砂市阿弥陀町

    土田家住宅(旧魚橋郵便局)

 阿弥陀町魚橋の中ほどに、薄緑色の木造建築(写真)があります。

 高砂市阿弥陀町の土田家住宅旧魚僑郵便局舎です。

 同市編入前は、印南郡阿弥陀村で、明治維新後の1874年(1874)、役所や警察、法務局などとともに郵便局として郡の中心部に置かれました。

 当初は、土田邸を改装して業務を始め、1904(明治37)年に洋風建築で建て替えられました。

 寄せ棟の瓦屋根に下見板張りの外壁、正面1、2階には左右対称の鎧戸(よろいど)の付いた窓も設けられました。

 増改築は繰り返されましたが、1階の局舎部分は姿を変えることなく、90年近くの国道2号沿いに移転するまで地域の郵便局として親しまれていました。

 「ふるさとの懐かしい風景を残しておきたかった」と振り返るのは、県教委の依頼で市内の近代建築物を調査した一級建築士の吉田文男さん(高砂市曽根町)。

 「傷みがひどいので取り壊したい」という所有者を説得し、修復にこぎ着けました。

 そして、2004年、歴史的景観の重要性から国の登録文化財になり、「埋もれそうな地域の歴史に光を当てたい」という吉田さんの願いがかないました。

 郵便局は郵政民営化され、ずいぶん変わりました。

 この建物は日本の郵便制度の礎を伝えている貴重な建造物です。(no2763)

 *神戸新聞(2006年・11月29日)参照

 *写真:旧魚橋郵便局

 

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高砂市を歩く(185) 中世・魚橋窯跡

2015-04-14 08:15:39 |  ・高砂市阿弥陀町

   魚橋窯跡

 高砂市阿弥陀町魚橋の地蔵山の東斜面に続く台地から、すさまじいまでの量の古瓦の破片が出土しました。地元の人は、ここを「カワラッシャ」と呼んでいました。

 今は、そこは現在、東洋金属熱連工業所(高砂第二工場)が進出し、その面影を偲ぶことはできません。

  院政期:東播磨と中央政権のつながり

 これらの古瓦の研究から意外な歴史が浮かび上がってきました。

 瓦の様式からみて、ここで瓦が生産されたのは12世紀の初頭から13世紀のはじめにかけての、ほぼ100年間です。

 瓦の他に、須恵器(すえき)のほか強い火を受けた窯壁も出土しており、この台地に瓦窯があったことは確かなようです。

 つまり、古代から中世へと社会が大きく変動した100年間に限って盛んに瓦を生産したしたことは、なにを物語っているのでしょうか。

 京都・六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)は、京都東山の岡崎周辺に建てられた寺

です。

 *六勝寺については、下記の(注)をご覧ください。

 古代末期、時の専制者(天皇・上皇)の造寺等が思いのままであった時代の建造物です。

 六勝寺の研究は、昭和30年代に入って急速に進展しました。

 意外な事実が明らかとなりました。

 六勝寺の瓦には、魚橋窯跡から出土する瓦と全く模様の瓦が多数含まれていたのです。

 古瓦の研究者、今里幾次氏は魚橋窯で焼かれた瓦が六勝寺に供給されたのではないかと推測されています。

 魚橋瓦は、六勝寺だけではなく、さらに広く王城の地の大寺、宮殿に送られたようです。

 六勝寺自体が、古代末期の院政の象徴とも考えられる存在で、魚橋窯は院政とよほど深く関係していたようです。

 (注) 六勝寺:院政期、天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と総称されました。(no2762)

*神戸新聞(1981・11・26)参照

*写真:(株)東京金属熱連工業所・高砂第二工場(この場所が魚橋瓦窯跡)

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高砂市を歩く(184) 天川橋は残った

2015-04-13 07:54:32 |  ・高砂市阿弥陀町

 高砂市を歩く(178)で、石工・仲右衛門(現:高砂市阿弥陀町生石の人)と天川橋を次のように紹介しました。(「高砂市を歩く・178」と合わせてご覧ください)

  仲右衛門(パート2)  天川橋は残った

 「・・・石工・仲右衛門は、江戸時代末に活躍した石工の一人で、巨大な石材の細工を得意としたといいます。天川橋(姫路市御着)も彼(石工・仲右衛門)の作品として知られています。

 6日(月)の午後、天川橋の写真を撮りに出かけました。でも、現在の天川橋には、仲右衛門の影がありません。

 新しいコンクリートの特徴のない橋に変わっていました。ここでも歴史が一つ消えています。・・・」と。

 翌日、二重丸さんから「天川橋は、御着城跡に保存され、HPにも詳しく紹介されている・・・」と、ご連絡を頂きました。

 11日(土)、さっそくカメラを持ち撮影に出かけました。以下は、その時の写真とHPの写真および、姫路市教育委員会の説明です。

 「・・・姫路藩が文政十一年(1828)に、この地(御着城跡)より南西200mの旧西国街道の天川に架橋した。総竜山石製の太鼓橋、全長26.6m、幅4.4m、高さ約5mで橋脚5本。

 印南郡石工、瀬肋・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。
 橋の東北詰めには高札場があった。
 昭和47年(1972)9月9日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和53年(1978)10月、現在地に移設保存した。

 高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御者城の濠跡。
 平成13年2月 姫路市教育委員会」(no2761)

 *写真上:建設者(仲右衛門)の銘のある欄干、中:ありし日の天川橋、下:保存されている天川橋

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高砂市を歩く(183) 一の華表

2015-04-12 09:17:35 |  ・高砂市阿弥陀町

 *「一の華表」は高砂市米田町神爪にある鳥居ですが、石の宝殿の続きとして、カテゴリーは高砂市阿弥陀町で紹介します。

  一の華表(一の鳥居)

 宝殿に近い西国街道筋・神爪(高砂市米田町)に、社殿もないのに大きな鳥居と灯籠があります。

 延宝年間(1673~81)この地の庄屋・神吉久太夫が姫路の殿様の怒りにふれ一家断絶になろうとした時、生石神社に祈願してその難を免れたといいます。

 そのお礼の意味で奉建したものですが、知らない人から見れば神社が火事か何かで消失し、その跡地に残る鳥居としか思われないような風景です。

 鳥居の延長線上に石の宝殿・生石神社が望まれる場所にあります。

 神社から遠く離れてはいるものの「一の鳥居」といわれ、石の宝殿「一の華表」とも呼ばれています。

 しかし、都市化の激しい地域でもあり、現在、鳥居の前方には、びっしり住宅が並び、生石神社は全く見ることはできません。

 宝殿山も見えません。

   手前の燈籠は、山片蟠桃寄贈の燈籠

 手前の灯ろうは、神爪(かづめ)出身の山片蟠桃の寄贈による燈籠です。

 山片蟠桃については、「山片蟠桃物語(高砂市を歩く・66~76)」で詳しく紹介をしていますので、ご覧ください。(no2760)

 *『高砂の史情(森村勇著)』参照

 *写真:一の華表(一の鳥居)

 

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高砂市を歩く(182) 竜山石

2015-04-11 08:33:51 |  ・高砂市阿弥陀町

   竜 山 石

 石の宝殿のある宝殿山の山頂に来ています。

 高砂から加古川の市街地が一望できます。ここを古代加古川は流れていました。

 古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像されます。

 本流の河口は、現在の竜山石の採石場(写真)のあたりだったのでしょう。

 万葉集で歌われている加古川の三角州「ナビツシマ」が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようです。

 そこに、竜山石の採石場がありました。

 真壁夫妻の研究によれば「5世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が5世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられます。

 竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれました。

 竜山石は、ここから出発し、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅」に移しかえられ設置場所まで運ばれたのでしょう。

 道路の整わない当時の陸上を運ぶより、水上を運んだ方がはるかに容易に早く運べました。

 竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)でしたが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所にありました。

 竜山石・石の宝殿の詳細については『石宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子著)』(神戸新聞総合出版センター)をお読みください。(no2759)

 *写真:竜山石の現在の採石場

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高砂市を歩く(181) 肥料主

2015-04-10 09:18:03 |  ・高砂市阿弥陀町

     肥 料 主

 全国には、「**王」といわれる人は、たくさんおられます。

 謙虚さを尊ぶわが国では、これらの人々は、他人がそう呼んだのであり、自ら「**王」と名乗ったのではありません。

 例外が加古川市にありました。多木久米次郎です。

 山陽電車の別府駅(加古川市別府町)の西の道を南にまっすぐに下り、別府川を渡って500mほど行けば港に出ます。

 その手前に多木浜洋館(あかがね御殿)があります。

 あかがね御殿の横に「肥料主」と刻んだ石碑があります。

 戦前は、この石碑に堂々とした多木久米次郎の像がのっていました。

 もともとは、久米次郎は自分の像に「肥料王」と刻んでいました。

 時代は戦前です。

 天皇の時代に、いくらなんでも「マズカロウ」との声が上がりました。

 そこで、久米次郎は「王」の上に「チョン」を付けてごまかしたのです。

 姑息なことを思いついたものです。

 以前、加古川市別府町の探訪で、この話を紹介しました。

 「加古川検定」にも出題された話題です。

   玉垣に刻まれた「肥料主」 

 生石神社を訪ねた時、玉垣に「肥料主」(写真)の文字をみつけました。

 浮き石への入り口を左に行き、浮き石を巡る最初の玉垣です。

 彼は、よほど「肥料王(主)」にこだわっていたようで、他のある場所の玉垣に「肥料王」の文字が残っていました。(no2758)

 *写真:玉垣に残る「肥料主」の文字(生石神社)

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高砂市を歩く(180) 山形県酒田市に生石神社の分社が

2015-04-09 12:37:39 |  ・高砂市阿弥陀町

   山形県に生石神社の分社

  『印南郡史』に「秋田県なる生石(おうしこ)は、成務天皇の十一年、当社より分霊を勧請せしものなり」と分社の存在が書かれています。

 この『印南郡誌』の記述は、氏子の間では知られていましたが、「はたして、秋田県酒田に生石神社が実在するか、否か?」については、そのままになっていました。

 昭和55年、氏子の中で捜してみようという声がおこりました。

 ためしに『印南郡誌』に記載されている宛名へ手紙を出すことになりました。

 なんと、11月中旬に返事がきました。

 差出人は、「山形県酒田市生石大字十二の木1776、生石神社宮司、生石正喜」となっています。

 さっそく、氏子19人が酒田市に出向くことになりました。

   石の宝殿より神霊を勧請 なぜ?

 なんと、酒田生石神社の祭神は高砂の生石神社と同じで、神社には、石宝殿より神霊を勧請し、成務天年、生石村を開いたという伝えが残され、生石子の神という呼び名もあり、石の宝殿を本社とする分社であることがかめられました。

 何とも不思議な話です。

 今のところ、どういうルートで酒田市に石の宝殿の分社があるのか分かりません。

 ロマンのある話です。かくれた歴史の何かがありそうです。・・・

 理由をご存知の方は一報ください。

 このニュースは、昭和56年3月15日の神戸新聞に大きく取り上げられ話題を呼びました。(no2757)

 *写真:山形県にあった生石神社の分社の本殿(神戸新聞より)

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