ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

悲しみを放棄しない

2008-06-04 04:57:10 | 脳みその日常
先月の12日、歳若い友人が亡くなりました。入院して5日後に永遠の別れになるとは誰も想像しませんでした。医者ですらこの症例で亡くなるとは思わなかったそうです。それほどまでにあっという間の幕切れでした。ワシは葬儀に立ち会えなかったので後日御挨拶に伺ったのですが、ご遺族の無念さに心が痛くなりました。本当に残念でなりません。

生前、友人は多くの人から慕われていました。その人懐っこい笑顔は今でもワシの記憶に残っています。話によれば、葬儀には相当多くの弔問客が来られたそうです。

若い人の訃報に接するたび、再度書きますが心が痛くなります。もちろん高齢者の死とて悲しいですが、やはりまだまだこれから活躍しようという若い人の場合には別の意味での悲しみがあります。ああ、神様、あなたは何て非情なことをなさるのだ…。何も今彼を召さなくてもよいではないですか。

それが彼の寿命だったのだとは思いたくありません。彼にはまだすべきことがたくさんあったでしょうに。周囲の人々も彼の活躍を望んでいたはずです。もちろん、人間、いつかは最期の時が来ます。理屈で考えればその「時」が早いか遅いかというだけなのかもしれません。人はそういうふうに割り切りながら他人の死に対峙するのでしょう。

でもワシは他人の死というものをある種の「儀礼」のように割り切って考えられないのです。たとえば、近所の付き合いだからとか仕事上の付き合いだからというスタンスで、サバサバとした態度で葬儀に出席するなんてとてもできませんね。

友人とは特に親しい付き合いをしていたわけではありません。ですが、儀礼的に弔う気にはなれません。自らの心が痛くならないためには「割り切り」が必要なのかもしれません。たぶん世の多くの人たちがサバサバした態度で葬儀に臨むのは自己防衛のためなのじゃないでしょうか。

付き合いの度合いはともあれ、故人を悼む気持ちはみな同じはず。みんな心が痛いのです。でも、つらく悲しい気持ちを抱けば抱くほど、苦しくなるばかり。となれば各人の防衛本能が働くわけです。苦しくならないためには悲しみを割り切って捉えたら良い、と。まあ、たぶんこんなことを改めて考える人もいないと思います。これはそれぞれの人が自らの経験に基づいて無意識のうちに習得した知恵なのでしょうし。

理屈はそうなのでしょうが、それでもワシは割り切ることができません。もし自らの心の平安を保つために防衛本能から割り切った態度をとるほうがよいとわかっていても、敢えて苦しいほうを選びたいと思っています。心の痛みを放棄したら故人への気持ちや記憶が薄れてしまうような気がするからです。心の痛みをもち続けることで故人を供養できるんじゃないかと思うからです。もっとも、そんなのは実際には後づけの理由であって、亡くなってひと月近く経た今もワシの心はつらい状態なんですけどね。

それにしても、ホント、若い人の死は心にこたえます。
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