ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

誰がオペラを作曲したのか

2007-11-21 15:54:11 | 音楽あれこれ
オペラの上演時間はクラシックの他のジャンルに比べ概して長い。そのため、しばしば部分的にカットされることも多い。

しかし時間が長いというだけで演奏者が勝手に作品に手を入れてカットするなんてのはオペラぐらいなもの。器楽作品の演奏においては、編曲という形をとることはあっても原曲の一部をバッサバッサ切り捨てることはまずしない。ある程度冗長な作品であっても器楽の演奏者たちはそれが作曲家の意図だと解釈するからだ。器楽の演奏家たちがそんなオペラ的な発想をしたら、たとえばシューベルトのピアノ・ソナタなんてカットの嵐になってしまう。

CDやDVDなどの音楽ソフトにおいてもしかり。オペラ全曲版などと謳っていても小規模な作品はともかく、その多くに変更が加えられているのがほとんど。ただね、単にショート・カットするのならまだ可愛いもんさ。困るのは複数存在する版を往復するパターンなのだ。

あるところまでは原典版で演奏しているが、突然スコアとは違う音楽になる。こちらはスコアを追いながら聴いているので「おっ、どこへ飛んだのかな?」とその先のページをめくってみる。しかし捲っても捲っても該当する音楽がない。

フツーに聴くぶんにはそんなことはスルーすればいい。だがこちらは演奏とスコアが一致しているかを確認する仕事をしているので放置するわけにいかない。そうなると「違う音楽」が何なのか突き止めなければならない。これがなかなか厄介な作業で時間がかかる。

で、ようやく改訂版の一部をそこで使っていることが判明。やれやれ、一件落着か…。

しかし考えてみるとそのような借用は果たして正しいのかという疑問が湧く。なぜなら作曲家はそのようなことを意図していないのだから。原典版で演奏するのなら原典版のスコア通りに演奏すべきだし、いや、作曲家が最終判断を下した版こそが正しいと判断するのなら最終稿の版を使うべきだろう。少なくとも異なる版同士を行き来させるのは演奏家の趣味を反映したものであっても、作曲家の意図ではない。

まあ、そんなことを言ってもさ、プッチーニやらヴェルディの作品をはじめとして多く作品で頻繁にカットが「勝手に」行なわれているから、作曲家の意図もクソもないんだろうなあ。

でも、作曲する側にしてみれば面白くないだろうね。「コノヤロー、なんでそこをカットするんだ!」「勝手にカットすんじゃねーぞ!」と、天国から叫んでいるのかもしれない。その声は舞台関係者には決して届かないだろうけれど…。
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