ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

学びの階梯(下)

2009-01-22 04:56:30 | 脳みその日常
問題はここから。ちょっとした才能に恵まれ、運良く壁を越えられたと思える人がいるとしましょう。いや~メデタシ、メデタシとなりそうですが、そう簡単にはいきません。なぜなら実技の最終目的は自己表現だからです。

表現するとはどういうことなのでしょうか。簡単に言えば「自分らしさを出すこと」です。そのためにはどうしたらよいのでしょう。そうです、考えるというプロセスが必要なのです。基礎レヴェルでは先生の指示通りにすればよかったのですが、自己表現となるとそれだけでは済みません。猿真似では通用しないのです。

多くの上級レヴェルの人がいます。また中にはプロフェッショナルと自称する人もいます。でも、残念なことにこれらの中には「考える」ことができないで苦しんでいる人も多いのです。なぜなのでしょうか。理由のひとつには習う最初の頃から教師が本人に考えさせる癖をつけさせなかったからです。長年考えないことが習慣となっていた人に、いきなり「考えろ!」と言ったって、そりゃ無理な話。だから苦しむのです。

となると、最初の話と矛盾することになります。習うより慣れろが上達の早道なのに、いつしか最初から考える習慣をつけろ!とは…。教える立場からすると、これは本当に頭の痛い問題なんです。どうしたらこの相反する問題をクリアできるのか。ある程度のレヴェルから先は生徒本人の「才能」に委ねるべきなのでしょうか。

でもですよ、ひとくちに才能といいますが、そもそも才能って何なんでしょうね。才能はそれぞれの人が生まれもったもの。それを他人がど~のこ~の言う性質のものじゃありません。いや、言えません。

それぞれの人がどのように「感じた」のかを表したのが「表現」といわれるものです。ということは、ある程度の表現手段を習得して、さらに何かを感じられる人であれば才能をもった人ということになりそうです。とすれば、別にその人が深く物事を考える能力がなくたって良いということになりますよね。

そうすると、教師のやるべきは生徒に「感じる力」をどう培わせるかということになります。もっとも、生徒にそのような能力をつけさせるなんて本当は無理な話なんです。だって「感じる」のは本人なわけでしょ? こちらとしては生徒に様々な情報は提供できるかもしれません。でも、それ以上は本人の感受性次第ということになるのですから。

それにしても才能とはかくも不思議なものだと思います。才能、才能とよく言いますが、よくよく考えてみればわからないことだらけ。教える側がそれについてよくわかっていないのに、そうしたわからないものを引き出そうとか伸ばそうとするのは果たして正しいことなのでしょうか。むしろ教える性質のものではなく、生徒の自主性に完全に任せるものなのかもしれません。

ああ、このように書くと誤解されるかもしれませんね。「もしかして教えることに対して悩んでいるの?」と。いえいえ、決してそんなことはありませんよ。逆です。変貌していく生徒を見るのが楽しくて仕方ないんです。ただ、心の片隅には常に上記のようなことが「ひっかかっている」だけなんですけどね。

(了)
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