ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

よくあるフォルム?…惣の関ダム

2022-11-01 06:52:26 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県宮城郡利府町森郷名古曽(りふちょうもりごう なこそ)にある砂押川(すなおしかわ)水系の惣の関(そうのせき)ダムを訪れます。アクセスは県道8号から「大郷(おおさと)」方面へ繋がる県道40号を入って行くと目的地に到着します。

まずは左岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。フォルムからして治水ダムかな?


ダム上に行く前にダムの下へ行ってみます。ダム下へは左岸のダム横から階段を下りて行くこともできますが、県道8号からクルマで行くことも可能です。で、これがダム下から見た「お姿」。手前に見えるクリーム色の建物は取水ポンプ室です。



ダム下にある周辺案内図。


そして、水神様を祀る石碑があります。


県道40号沿いのダム横には「惣の関ダム管理事務所」。ちょっとオシャレな住宅みたいですね。



近くには惣の関ダムの案内板があります。これによれば、当該ダムは勿来川(なこそがわ)を堰き止めて築造されましたが、勿来川が合流する下流の砂押川流域では昭和23年(1948年)9月に襲来したアイオン台風による洪水をきっかけに昭和25年(1950年)から砂押川の河川改修が開始されます。しかしその後も台風や豪雨による洪水が後をたちませんでした。一方、砂押川流域の多賀城市や利府町では都市化が進んだこともあり洪水被害が増加する傾向にあり、地元住民からは抜本的な治水対策の声が上がります。こうした状況を鑑み、宮城県は砂押川総合開発計画を立ち上げ、その一環として洪水調節、農業用水と水道用水の安定的確保を目的とする惣の関ダムの築造が決定されたそうな。


そして「事業経過」を見ると、昭和56年(1981年)から予備調査が開始され、昭和63年(1988年)に建設採択。当該ダムの工事に着手したのが平成7年(1995年)11月であり、完成したのは平成11年(1999年)度。いや〜、完成までに随分時間がかかったように思えますね。


上の「事業経過」の欄にある「第二ダム」については次回の記事で取り上げます。それにしても、このダムの名称は何に由来するんでしょうか。ざっと調べても地名ではなさそうだし…。

いろいろ調べていくとその由来がわかってきました。現在では「惣の関」と表示しますが、昔は「左右(そう)の関」と書いていて、道の分岐点を表していたようです。そしてそこには関所があったと伝えられているとか(参考)。でも、「左右」が「惣」になった理由や経緯はわかりません。

さて、ダムの案内板からダムを見ると、こんな感じ。


いよいよダム上を歩いてみることにします。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。遠くに小さく見える橋を渡って行くと先ほど触れた「第二ダム」があるようです。


一方、ダムの真下はこんな感じ。写真上部に見えるのが取水ポンプ室の建物。ダムの高さは23.5mなので下を見ても恐怖は感じません。

そして下流側の遠景。


対岸(右岸)へ来ました。振り返ると、こんな感じ。


右岸、貯水側から見たダムの様子。


このダムを見た時、以前訪れたような錯覚を覚えました。すぐには思い出せませんが、これに似たフォルムのダムは他にもあったような気がします。えーと、どこだったかなぁ。
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二つの顔をもつ?…大倉ダム

2022-10-30 06:53:56 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県仙台市青葉区大倉岩下にある名取川水系の大倉ダムを訪れます。アクセスは国道48号「熊ヶ根」表示のT字路を入り、そのまま県道263号を道なりに進んで行くと到着します。

上のリンク先の説明に書いてありますが、大倉ダム築造のきっかけは昭和22年(1947年)のカスリン台風、昭和23年(1948年)のアイオン台風、昭和25年(1950年)8月に起きた増水により大洪水が発生したことにありました。また同時期、仙台市、塩竈市(しおがまし)の人口増加に伴って上水道用水の需要が高まり、さらに発展途上にあった仙塩工業地帯への工業用水の補給が必要となるなど水資源の総合開発を求める声が上がってきました。

そうした理由から旧建設省直轄事業として大倉川を堰き止めてダムを築造することが決定され、昭和33年(1958年)に工事が開始され、昭和36年(1961年)に洪水調節、灌漑、上水道、工業用水、発電を目的とした多目的ダムが完成。ダム管理は翌年から宮城県が行なっています。さらに平成23年8月1日には当該ダムの愛称が「仙台環境開発 大倉ダム」に決まったそうな。


ま、そんなこんなで右岸のダム横に到着しました。おー、アーチ式かな?


ダム上は、こんな感じ。緩やかなアーチを描いていますね。


右岸の道を貯水側に行ったところから見ると、こんな感じ。


その道沿いには水利使用標識があります。これは発電を目的とした標識ですね。


右岸沿いの道をさらに進むと「宮城県大倉ダム管理事務所」があります。



では県道263号でもあるダム上を進んでみましょう。もちろん車両通行可ですが、道幅が狭いため歩いて進みます。

ダム上、中央には待避所を兼ねたスペースがあり、そこには「仙台環境開発 大倉ダム」の看板がデーンと置かれています。

「仙台環境開発」というのは会社名で、同社がスポンサーとなってダムの維持管理を行なうのだそうです。そうした意味を込めて同社と宮城県の間でこのダムの愛称を「仙台環境開発 大倉ダム」とするネーミングライツ(命名権)契約が締結されたそうな。こうしたダムに対するネーミングライツの導入は全国で初めてのことらしい。ふーん。その意義についてよくわかりませんが、まあ、そういうもんなんでしょうねえ。


その近くには大倉ダムの案内板があります。それをなんとなく読んでいたら…

あれれ、確かにアーチ式ダムなんですが、その形は一般的なアーチ式ダムとは違うんですね。二つのアーチが繋がっていて、その形はまるでお尻のよう(笑)

こちらの概要はリンク先の説明よりも詳細に記されています。上の築造経緯を正確に記すと、昭和25年(1950年)8月に襲来したヘレン台風による大豪雨を受けて、同年より宮城県がダム調査に着手。同31年(1956年)から建設省の直轄事業となり、同33年(1958年)4月から建設工事に着手。同37年(1962年)3月にダムが完成した後、ダムは宮城県が管理することになったようです。


ダム上、中央から左岸側を眺めると、ダムがもうひとつあるように見えますね。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、下流側はこんな感じ。


ダム上、中央から左岸へ行く途中には左岸農業用水取水塔があるんですが、その壁にも水利使用標識が。この目的はもちろん農業用水の確保です。


左岸に来ました。そこから見たダムの様子。これだけでも立派なダムに見えますよね。

ちなみにそこに見える非常用洪水吐を下から見ると、こんな感じです。


ダム築造の背景には悲惨な出来事があったわけですが、さすがは旧建設省だけあってそうした事実をきちんと案内板で説明しています。見学者からすると詳細な記述は本当にありがたい情報であり、「いい仕事」をしているなと感心させられますね。
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また今度ね!…青下第1・第2ダム

2022-10-29 06:53:19 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。宮城県仙台市を流れる青下川を「青下両水堰」「青下第3ダム」と下ってきて、次なる目的地は名取川水系の「青下第2ダム」になるんですが、その入口にあたる場所に来てみると、なんと門が閉まってるじゃないですか!


うむむむ。さてさて、どうにか見ることができないかなと思い、上の写真でいうと左側のところからフェンスに沿って行ってみました。しかし青下川まで行ってもフェンスがあって、結局ダムは見えず。見えたのは青下第2ダムの説明と思しき石柱のみ。


いや〜、参ったな。これじゃあ、ご覧の皆さんに申し訳ない。ならば、その下流にある青下第1ダムへ行ってみよう。

地図を見ると目的地は仙台市水道記念館あたりから行けそう。で、その入口に来てみると、やっぱり門が閉まってました。案内板を見て納得。どうやらワシは開館時間外に来たからのようです。そりゃ開いてないわけだ。


でも、案内板から分かるように開館時間内ならば第1・第2の両ダムを見学することができそう。となれば、日を改めて訪問することにしましょう!

てなわけで、今回はここまで。
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芸術品だねぇ…青下第3ダム

2022-10-28 06:51:48 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県仙台市青葉区大倉藪畑(やぶはた)にある名取川水系の青下(あおした)第3ダムを訪れます。アクセスは昨日記事にした青下量水堰から県道263号方面へ向かい、その道沿いにある大手門公民分館のところのT字路を入っていきます。民家へ向かう感じですが、目的地はその先にあります。

これが青下第3ダム。

ダム本体もそうですが、ダム下の壁面全てが玉石貼りになっていて、もはや芸術品!


右岸のダム横付近から見た様子。ご覧の通り、ダム上に行くことはできません。


ダム横から見た青下川上流方向の景色。この少し上流に青下量水堰があります。


青下量水堰のと同じようなフォルムの案内塔。

青下第3ダムの完成は昭和9年(1934年)で、高さ15.15mの玉石貼りの越流式重力ダムです。

ここも青下量水堰と同様に登録有形文化財に指定されています。(参考


ダムの表面は工程を考えれば、コンクリートむき出しのままでも良いと思うのに、敢えてそこに玉石を貼るというのは「こだわり」なのでしょうか。それとも別の理由があるのかな? いずれにしても職人たちの労苦は賞賛されてしかるべきものですね。お見事!
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もはや文化財…青下量水堰

2022-10-27 06:58:40 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県仙台市青葉区大倉西原にある名取川水系の青下量水堰(あおしたりょうすいぜき)を訪れます。アクセスは国道48号の「熊ヶ根」というT字路を定義(じょうぎ)方面へ入り、少し行くと二股に分かれるので左の道を進み、しばらく行くと到着します。ただ、見つけにくいです。目印があるとすれば、道路の右側にある水利使用標識かなぁ。

仙台市の水源はいくつかあるようですが、青下川もそのひとつ。この川にはダムが三つあって、青下量水堰はそれらの上流にあります。量水堰とは文字通り川の水量を計測するために設けられた堰堤なので決して規模の大きなものではありません。データによれば高さは2.0mほどらしい。でも昭和8年(1933年)に築造された玉石張りのコンクリート堰堤は登録有形文化財に指定されるほど貴重なものでもあるようです。(参考

その御姿がこちら。青下川は道路よりもまあまあ低いところを流れているので見下ろす形になります。


その見下ろすところにあるのがこれ。

青下量水堰の説明と、

登録有形文化財のプレート。


その近くにある水利使用標識。


量水堰には近寄れず、名残惜しいので最後にもう一枚。


興味のない方には「なんだ、こんなもんか」と思われるでしょうが、ええ、こんなもんなんです。ただ、実際に目で見て確認するのが楽しいんですよ。
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次回のお楽しみか?…樽水ダム

2022-10-26 06:52:03 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県名取市高館川上(たかだてかわかみ)にある名取川水系の樽水(たるみず)ダムを訪れます。アクセスは国道4号「名取市田高」交差点を秋保(あきう)方面へ曲がり、東北本線の陸橋を越えた最初の信号を右折。そのまま県道118号(名取村田線)を道なりに進んでいくと左岸側へ到着します。

到着したはいいんですが、ダムへの入口は閉じられていました。

崩壊斜面の復旧工事を今年いっぱい行なっているため、立入禁止のようです。

でも、工事が終わればダム上に行くことはできるんでしょうか。「きけん!!立入禁止」の看板はこの工事のためだけなのか、それとも元々ここへは立ち入ってはいけないのか、これだけから判断することは難しいですね。


門の隙間からダムを見るも、確かに工事中のようです。


それでも、どこかダムが見えるところはないかなとダム下へ行ったり、右岸側へも向かったのですが、いずれも進入禁止で行けず。そこで、左岸側の県道118号を上流方面へ少し行くと、ちょっとだけダムを見渡せる場所がありました。そこからの眺めがこんな感じ。向こうの白い建物が管理棟のようですが右岸側にあるのでもちろん行けず。


目的地に来たものの、近くには案内板もないので樽水ダムについて上のリンクを参考に要約してみます。当該ダムは増田川を堰き止めて築造されたのですが、この増田川、地形の関係で蛇行している上に河岸の堤防が未整備だったため増水するたびにあちこちで氾濫を繰り返し、周辺住民に多大な被害を与えていたそうです。

一方、名取市は仙台市に隣接していて、昭和38年に新産業都市に指定されたのに伴い、人口増加が予想されることから上水道の急速な拡大整備が必要になっていました。増田川総合開発事業はこうした経緯で始まり、その一環としてこの地に洪水調節、灌漑および上水道の供給を行なう多目的ダムの築造が決定されます。そして昭和40年から国庫補助事業となり工事が進められ、昭和52年(1977年)3月に中央コア型ロックフィルダムが完成。ちなみにダム名はダムの上流の地名に由来します。

…と、まあ、つらつら書いて来ましたが、肝心の樽水ダムを見ないことには話になりません。今回は残念ながら見ることができませんでしたが、いずれ機会を見つけて(立てるものなら)ダム上に立ちたいと思います。
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安全優先!…七北田ダム

2022-10-17 12:33:29 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県仙台市泉区福岡蒜但木向(ひるただきむかい)にある七北田川(ななきたがわ)水系の七北田ダムを訪れます。アクセスは国道457号と交差する県道223号を七北田ダム方面へ曲がり、しばらく行くと二又に分かれるので左の道(県道263号)に入っていきます。そして「七北田ダム管理事務所」の看板のあるところを入って行くと目的地に到着します。

途中から見たダムの様子。写真だとわかりにくいですが、左岸側に洪水吐があるようです。


そして管理事務所に到着。ところが門が閉まっていてダムに近づくことはできず…。



仕方がないので今度は県道263号に戻り右岸へ行ってみることに。しかーし、こちら側も門扉が閉まっていて行けず。むむむむ。


県道を貯水側に沿ってさらに進むとちょっとした駐車スペースがあり、そこには古めかしい石碑があります。全文は読めないんですが、その記述からわかるのはどうやら七北田ダムが築造される前、ここには蒜但木溜池が昭和26年(1951年)3月に築造されていたようです。石碑はその記念碑らしい。



少し離れたところには七北田ダムの案内板があります。これによれば、この場所の地盤は軟弱で透水性が大きいため様々な処理がなされているそうな。そして蒜但木溜池に代わる施設として昭和44年(1969年)4月に予備調査が開始され、昭和60年(1985年)3月に完成したとあります。その目的は洪水調節、流水の正常な機能維持、仙台市泉区と塩竈市(しおがまし)への上水道用水供給だそうな。


そこから見たダムの様子。


上にも書いたように蒜但木溜池を改修してヴァージョンアップしたものが七北田ダムなのですが、下流地域の水がめとして重要な役割を果たしているのを思えば安全対策としてダム上が立入禁止なのは仕方ないのかもしれませんね。
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「七つ森」が読める!…宮床ダム

2022-10-16 18:29:31 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県黒川郡大和町宮床荻ケ倉(たいわちょう みやとこ おぎがくら)にある鳴瀬川水系の宮床ダムを訪れます。アクセスは国道457号を進んで行くと到着します。

ダム横へ行く前にダム下の「あさひな湖畔公園」へ国道457号から行ってみます。すると「ご尊顔」を拝むことができました。横に長いダムですね。


左岸のダム横に来ました。そこには宮床ダム管理事務所があります。



左岸の位置関係を示した図。「サブロー交流広場」? なんでしょうね(命名理由は後でわかります)


その上流側へ行くといくつかの石碑があります。この「記念碑」には宮床ダムへ至る経緯が記されていて、要約すると次の通り。

宮床ダムができる前、ここには摺萩(すりはぎ)溜池と呼ばれる溜池があったそうな。それは富谷町一ノ関、二ノ関、三ノ関の農業用水確保のために作られたもので昭和5年(1930年)10月に完成。ところが昭和23年(1948年)9月に来襲したアイオン台風により宮床川は増水、氾濫して下流域に甚だしい被害を及ぼした。宮城県はこの状況を鑑み、水害防止を図るために宮床ダムの築造を計画。そして完成したという。


「記功碑」と題された石碑。随分古いもののようで、内容がほとんど読めませんが、どうやらこれは摺萩溜池が完成した際に建てられたものらしい。これによれば、着手は昭和4年(1929年)2月21日で、昭和5年10月15日に竣工したと記されています。



「治水悠久」と題された石碑。あれれ、ここにも七ツ森と朝比奈三郎が!これらについては「南川ダム」の記事に書いたのでお読みください。


宮床ダムの概要が記された案内板。当該ダムは下流の吉田川総合開発の一環として建設されたもので、洪水調節、流水の正常な機能維持、水道用水確保を目的とする多目的ダム。昭和48年(1973年)に予備調査が開始され、平成8年度に完成したとあります。




左岸のダム横に戻ります。そこには民話「七つ森」に関する石碑があり、その概要が記されています。



ダム本体に嵌め込まれたプレート。1997年(平成9年)3月完成とあります。上の案内板で平成8年度完成とありますが、案内板は年度記載なので間違いではないですね。


ダム湖名は「あさひな湖」。その名称はもちろん朝比奈三郎に由来するもの。そしてダム湖百選のひとつに選ばれていますが、このプレートがダム湖に面していないのはちょっと残念。


そして、これが左岸から見たダム上。歩いてみましょう。


なんと、ダム上の欄干には民話「七つ森」のお話がイラスト付きで読めるようになっています。どんなお話か興味のある方はお読みください。










ダム上、中央に来ました。そこからみた「あさひな湖」の様子です。


ダムの真下はこんな感じ。

そして下流側の遠景。


民話「七つ森」の続きです。








やっと対岸(右岸)に来ました。振り返ると、こんな感じ。


そこから見た「あさひな湖」の様子。


宮床ダムの前に完成した南川ダムでは「七つ森」の概要が記されていましたが、ここでは遂にその物語を読むことができるんです。「七つ森」が、ひいては朝比奈三郎がいかに地域に根ざし、愛されているのかがわかりますね。
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これもダムかしらん…南川鞍部ダム

2022-10-15 06:55:36 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県黒川郡大和町吉田悪田東(たいわちょう よしだ あくだひがし)にある鳴瀬川水系の南川鞍部(みなみかわあんぶ)ダムを訪れます。場所は昨日記事にした南川ダムのある七ッ森湖の南岸に位置するのでアクセス方法はそちらを参考にしてください。

到着しました。これのようです。写真左に見える道を行くと七ッ森大橋になります。


左岸のダム横に行きましたが、ダム上に行くことはできませんでした。


ならばと、今度は右岸へ移動してみるも、やはり行けず。フェンスの先に建物が見えます。写真では何もないように見えますが、これはフェンスの網目の間から撮ったのでそう見えるだけです。

建物の壁にはプレートが貼られていて、ズームすると「鞍部ダム取水設備」の文字がなんとか読めますがその下の詳細は読めず。


ん? 鞍部ダム? ダム下にある看板の表記も「鞍部ダム」になっています。なぜ「南川鞍部ダム」じゃないのかなぁ。


そもそも全体像が見えないし、当該ダムの案内板もなかったので消化不良のまま帰宅。帰宅してから調べてみると、このダムは南川ダムを築造するにあたり十分な貯水量を確保するためにかさ上げされたアスファルト表面遮水型ロックフィルダムなのだとか。つまり当該ダムは南川ダムの完成に合わせて築造されたもので、1988年3月だそうです。(参考

うーん、確かにダムなんでしょうけど、訪れた印象としては「おおっ、ダムだ!」という感じではなかったですね。ちなみに「鞍部」とは地名ではなく、その形状が馬の鞍に似ているところからそう命名されたのではないかと思われます。その様子は南川ダムの記事に載せた写真を見ると納得できるんじゃないかと思います。
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地域に根ざす横長の…南川ダム

2022-10-14 06:56:21 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は宮城県黒川郡大和町吉田悪田西(たいわちょう よしだ あくだにし)にある鳴瀬川水系の南川ダムを訪れます。ダム名は南川を堰き止めて築造されたことに由来すると思われます(ダムの下流は吉田川と呼ばれるんですが)。アクセスは国道4号「大和町吉田」交差点から「七ッ森湖畔公園」方面へ曲がり、しばらく行くと突き当たりになるので左折。そのまま行くと「南川ダム」の表示があるのでそれに従って進むと到着します。

まずは正面から見た「ご尊顔」をご覧ください。治水ダムかな?


先ほどの道をそのまま進むと当該ダムの左岸に辿り着きます。道沿いには「南川ダム管理事務所」があるので迷うことはありません。


これが管理事務所の建物。



左岸からダムを見ると、こんな感じ。横に長いダムです。


ダム本体に嵌め込まれたプレート。昭和63年(1988年)3月竣工とあります。


別の場所に嵌め込まれた「定礎」のプレート。こちらは1982年10月14日。


左岸から見たダム上。リンク先のデータによれば、長さは355.0m。なかなかの長さですなぁ。


ダム湖名は「七ッ森湖」で、ダム湖百選のうちのひとつ。


【七ッ森の由来】(参考
ここから北にある加美の地に昔、朝比奈三郎という大男が住んでいたそうな。ある時、彼は弓の稽古をするため的となる山を作ることにしました。そこでタンガラと呼ばれる背負いカゴを作り、現在の東北本線の鹿島台駅あたりまで来てタンガラ一杯に土を入れて七往復して的山を作ります。完成した的山が現在の矢喰山(薬萊山)で、土を掘ったくぼ地にできのが品井沼(しないぬま)となり、土を運ぶために歩いた道が今の吉田川になったそうです。

とはいえ、さすがの大男も土を運ぶには息が切れたのでしょう。七往復する途中、毎回一度休憩を入れたそうな。その際タンガラから土がこぼれ、結果的に七つの山ができました。それが笹倉山、松倉山、撫倉山、大倉山、蜂倉山、鎌倉山、遂倉山で、それらを総称して七ッ森と呼ぶんだそうです。

ダム上の欄干は「南川アートギャラリー」になっていて、周辺の小学校の生徒が描いた絵が飾られています。左岸の平成17年度のものから順に並んでいます。絵はたくさんあるので省略。



ダム上、中央から見た「七ッ森湖」の様子。向こうに見えるのは次回記事にする予定の南川鞍部(みなみかわあんぶ)ダム。



一方、高さ46.0mから見たダム下の様子。

そして下流側の遠景。


一番右岸側に飾られているのが平成25年度のもの。


ようやく対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。


南川ダムは洪水調節、流水の正常な機能維持、上水道用水の供給を目的とする多目的ダムですが、地域に根ざした感が強い印象をもちました。
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再訪決定!…嘉太神ダム

2022-10-13 06:58:51 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県黒川郡大和町吉田中見山中(たいわちょう よしだなかみやまなか)にある鳴瀬川水系の嘉太神(かだいじん)ダムを目指します。アクセスは国道147号と吉田川が交差する橋沿いにある「山火事は地球の未来も燃やします」と表示のあるT字路を入って行くようです。

さて、ダム名の「嘉太神」はそこの地名らしいのですが、戸籍にはないそうな。というのも、ここはもともと平家の落ち武者たちが逃げてきてこっそり暮らしていた場所だからで、元の地名は三畑(さんばた)というらしい。いずれにしろ彼らはそこで右大臣と左大臣の2つの神様を祀っており、両者の交わる場所、すなわち大神が加わるという意味からこの場所を「嘉太神」と呼ぶようになったそうな。なんともわかりにくい説明ですが。(参考

…てなわけで、国道からT字路を入って行くと、うわっ、「車両進入禁止」の看板。ならば、ここから歩いて行こうかとも思いましたが、目的地までは1km近くあり、ポンコツのワシは断念。


ふと、近くを見ると廃墟のような建物。なんとも不気味です。


その隣には白い犬がいて、けたたましく吠えています。それはいいんですが、果たして飼い主はいるんでしょうか。そちらのほうが気になります。


ひと気のないこの辺り。なんでしょうね、この違和感。調べてみると嘉太神ダムの北、国道147号の近くに大和町立吉田小学校嘉太神分校跡というのがあるんですが、2006年頃に王城寺原演習場の騒音対策で集団離村しているそうな。そこからさほど離れていないこの場所も、もしかしたら離村組なのかもしれません。

いずれにしても今回は嘉太神ダムへ辿り着くことはできませんでした。帰宅してから改めて地図を見るとダムへは別の道からアクセスできることが判明。次回訪れることがあれば別ルートからアクセスしてみようと思います。
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演習場からの産物…牛野ダム

2022-10-12 07:02:29 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県黒川郡大衡村大瓜牛野(おおひらむら おおうりうしの)にある鳴瀬川水系の牛野ダムを訪れます。アクセスは仙台方面から来ると国道4号「大衡小学校前」交差点を左折し、そのまま道なりに進むと目的地に到着します。

さて、大衡村という珍しい地名ですが、それはここが広く(大)平らな(衡)丘陵であることに由来するそうな。

…と、まあそんな豆知識はともかく、おー、見えてきました。これですね。


左岸、ダム横には「1987 河北新報創刊90周年記念 みやぎ新観光名所100選 昭和万葉の森と牛野ダム」と記されたプレートが嵌め込まれた石碑があります。「みやぎ新観光名所100選」とは河北新報が1987年に創刊90年を記念して宮城県内の新たな観光名所を県民に募集したところ1,270万票もの投票があり、同年4月23日に選定が完了したそうな(参考)。残念ながら残りの99箇所についての紹介しているサイトは見つからず。

その横には「牛野ダム」と刻まれた石碑があります。写真は逆光でその文字が写っていません。

その下には築造の経緯が記されています。転記すると次の通り。(●:解読不能)

「王城寺原(おうじょうじはら)演習場は明治43年から旧日本陸軍の演習場として数々の歴史を生み、昭和20年の終戦と共に米國駐留軍の演習場として接収され昭和33年駐留軍の撤退により日本に返還され自衛隊の演習場となった。その規模は7,600ヘクタールに及び駐留軍の演習場として使用されてからは高度に発達した科学兵器機動化された重火器による実弾演習や重車両の通過によって山肌が荒廃し樹木は枯死したため山●●●●●まり保水力が減少し降雨時の出水甚だしくたん水の被害を及ぼすと共にかんがい用水の不足をもたらし王城寺原周辺の耕地に多大の損害を与えるに至った。このため●●●関係町村が連年この対策に腐心して政府に要望した結果、昭和36年日本國に駐留するアメリカ合衆國軍隊等の行為による特別損失補償に関する法律」によって抜本的用水対策として牛野ダムの築造を見ることができた。このダムによって善川流域耕地のかんがい用水不足が解消されて農業経営・安定合理化に資することが多大である」

その裏側には牛野ダムの諸元が記されています。事業名は「県営王城寺原補償工事事業」。工事着工は1961年9月で、完成は1968年9月。ロックフィルダムだそうです。


そんなわけで、いよいよダム上を歩いてみることにします。(車両通行可)


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、下流側はこんな感じ。


越流式の洪水吐は右岸側にあり、増水すると水はここを溢れ出て、


この水路を通って下流へ流れてゆきます。


水路に架かる橋を渡るとダムの右岸になります。振り返るとこんな感じ。


右岸、貯水側から見た様子。


なるほど、王城寺原演習場は牛野ダムの北にあるわけですが、たらればで言えば演習場がなければ牛野ダムも誕生しなかったかもしれないというわけですね。それはともかく、景色は良いので散策するには最適の場所と言えます。
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ドラマはあったのか?…保野川ダム

2022-10-11 06:58:13 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県加美郡色麻町小栗山上桑畑(しかまちょう こぐりやまかみくわばた)にある鳴瀬川水系の保野川(ほのかわ)ダムを訪れます。アクセスは県道156号の「←船形山入口」のところから「小栗山線」に入り、道なりに進んで行くと目的地の左岸に到着します。

まずは右岸から見た様子をご覧ください。こんなダムです。



順を追って見ていきます。保野川を渡る橋を過ぎると、ダムが見えてきます。右岸側に洪水吐があるのがわかりますね。


左岸のダム横に来ました。通常のダムだとダム横からダム上に直接繋がっているのですが、ここはちょっと変則的で、ダム上の途中にダム横への道があって、そこを進んで行くとダム上に行くことができます。似たパターンとしては以前訪れた上大沢ダムと同じです。


左岸、下流側から見たダムの様子。


一旦ダム上に出て、左岸のほうへ行くと「保野川ダム」と「定礎」のプレートが嵌め込まれた石碑があります。これによると、定礎は1992年10月。


そこからダム上を見ると、こんな感じ。


ダム上、中央から見た貯水側の景色。


一方、下流側はこんな感じです。


越流式の洪水吐は右岸側にあり、増水すると水はここを溢れ出て、


この水路を通って流れてゆきます。


この水路に架かる橋を渡ると右岸になります。振り返って見るとこんな景色です。


右岸の道を貯水側に進んで行くと「保野川ダム管理棟」の建物があります。1996年8月竣工。



そこからダムを見るとこんな感じ。


なお、保野川ダムにある案内板は左岸側のちょっと上流にあるこれのみで、諸元表はあるものの築造の経緯の説明はありません。



説明が不足しているのは県営ダムとしては物足りない気がしますが、おそらく農業用のダムなのでダム築造についての「ドラマ」(経緯)は省略されているのかもしれません。もちろん、かつては水争いの小競り合いがあったのかもしれませんが。
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万一のために?…漆沢ダム

2022-10-10 06:55:03 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県加美郡加美町漆沢宮ヶ森(かみまち うるしざわみやがもり)にある鳴瀬川水系の漆沢ダムを訪れます。アクセスは国道347号から「漆沢ダム」方面へ向かうT字路を入り、しばらく行くと二股になっているので右へ行けば管理事務所のある左岸へ、左へ行けば右岸に辿り着きます。

左岸へ至る道を登って行くと…おー、見えてきました。これですね。


左岸のダム横には漆沢ダム管理事務所があります。



管理事務所前には「碧水潤万民」と記された石碑があります。文字通り訳せば「深き青い水はすべての人々に恵みを与える」といったところでしょうか。


その裏側には「建設譜」と題された文言が。下部には概要と諸元が記されています。その内容は本記事の上のリンク先の説明と重なるのでそちらを要約すると次の通り。

鳴瀬川の河川改修は大正12年(1923年)から行われてきましたが、1947年9月に来襲したカスリン台風、翌年9月のアイオン台風、そして1966年9月と1974年7月に起きた洪水は鳴瀬川流域に甚大な被害をもたらしました。これと並行して大崎・黒川地区の開発が進んだことで水需要が増加。こうしたことから国土保全と住民福祉向上を目的とする鳴瀬川総合開発事業が始まり、その一環としてダムの築造が採択されます。そして洪水調節、流水の正常な機能維持、上水道用水と工業用水の確保、そして発電を目的とする多目的ダムの建設は1970年に着工され、1981年3月に完成したそうです(この石碑では完成は1980年5月と記されています)。


管理事務所付近から見た洪水吐。越流式で堂々としています。

同じ場所からダムを見ると、こんな感じ。

左岸から見た成瀬川の上流方向の様子。

上流側から見た洪水吐の様子。写真左側が越流式の洪水吐で、右側は放流設備だそうです。

放流設備のうち、中央にあるのが常用放流設備で、両側にあるのが非常用放流設備。

これがダム上。管理事務所のすぐ前から行くことができるんですが、立入禁止のようでダム上に行くことはできません。

先ほど見た洪水吐から溢れた水は、この水路を通って下流へ向かいます。

その付近から見たダム上の様子。


うーん、宮城県営のダムの多くはダム上に立ち入ることを禁止しているんでしょうか。なんとなくそんな気がします。水道用水のためのダムだからかな。万一毒物がダムへ投げ込まれたら大変だもんね。もっとも、それだけが理由ではないとは思いますが。
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周辺のことはわかった!…二ツ石ダム

2022-10-09 06:53:19 | 宮城(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は宮城県加美郡加美町宮崎北にある鳴瀬川水系の二ツ石(ふたついし)ダムを訪れます。アクセスは国道347号から県道262号(宮崎 陶芸の里)方面へ入り、そのままドンドコ行くと「二ツ石ダム」の表示のあるT字路があるので右折。その道をさらに進んで行くと「二ツ石ダム」の表示のある変則的なT字路があるので、そこを入って行くと目的地に到着します。

【二ツ石の由来】(参考
さて、ダム名の「二ツ石」ですが、もちろんそこを流れる二ツ石川にちなんで命名されました。じゃあ二ツ石の由来はなんだろう…。気になったので調べてみました。ダム近くの寒風沢(さぶさわ)という場所には「ヤット」と呼ばれる屋敷跡があるそうで、そこはかつて平家の落人が都落ちして隠れていた場所だそうです。ここには道路を挟んで高さ9尺、幅10尺、厚さ2尺の石でできた門が2つ立っていたことからその場所は「二ツ石」と呼ばれ、近くを流れる川を「二ツ石川」と呼ぶようになったとか。ほぅほぅ。

そんなこんなで二ツ石ダムに近づいてきました。まずは右岸の高台にある展望台?に向かいます。ここから見た景色がこちら。おー、立派、立派。そして右岸側には洪水吐が確認できます。



展望台には二ツ石ダムに関する案内板と石碑があります。

二ツ石川は下流で田川に合流し、さらに下って鳴瀬川に流入します。この鳴瀬川流域に広がる農地は別名「大崎耕土」と呼ばれ、今や宮城県内有数の穀倉地帯を形成しています。ところがこれらの河川の水量は少なかったため、限られた水を反復利用するなど農家は苦労が絶えませんでした。これを改善すべく国営鳴瀬川農業水利事業が開始され、その一環として二ツ石ダムの建設が1997年に着手され、2009年に中心遮水ゾーン型ロックフィルダムが完成します。それにより鳴瀬川流域のかんがい用水が確保されると同時に頭首工や用水路を新設もしくは改修することで用水の有効利用と水管理の合理化が図られ、安定した農業経営が実現することになったようです。




「大崎耕土を潤す 二ツ石ダム 山美湖」と刻まれた石碑。


その台座には「美しい里を彩るばら」(※1)

「大崎発祥のササニシキ・ひとめぼれ 」(※2)

「薬莱の清流におどる鮎」(※3)

(※1)加美町ではバラの栽培が盛んらしく、ダムの下流にあるやくらいガーデンの景色は素晴らしいようです。
(※2)どちらの米も大崎市にある宮城県古川農業試験場で誕生したもの。ササニシキは1953年に「ササシグレ(東北54号)」と「ハツニシキ(奥羽224号)」を交配させ、1963年に両者の名称から「ササニシキ」と命名。ひとめぼれは1982年に「越南17号」と「初星」を交配させ、1988年に「東北143号」として育成に成功。1991年、出会った瞬間に一目惚れするような美しく美味しい米という意味で命名された。耐冷性に優れているのが特徴。
(※3)「薬莱(やくらい)」はダムの下流の地名。

石碑の裏側にはダム湖名「山美湖」の名称の由来が記されています。それによれば、ダムの下流にはかつて宮崎町立旭小学校寒風沢分校があった。そこで学ぶ子どもたちの元気な声は「やまびこ」となって山々にこだましていたという。その山々から湧き出た水がダムを満たし下流の地を潤すだろうということにちなんで命名されたそうな。なお、同分校は明治15年(1882年)創立の歴史ある学校だったが、昭和58年(1983年)に閉校となり、現在は木造校舎のみが残されています。(参考


では、いよいよダムへ向かいます。右岸のダム横には「二ツ石ダム管理所」があります。定礎は2007年3月。




その隣がダム上へ通じているんですが、ご覧の通り柵があって行くことはできません。


仕方ないので柵の外側から右岸側の洪水吐を撮ります。越流式ですね。


そこから見た「山美湖」の様子。


洪水吐から溢れ出た水は、この水路を通って下流へ向かいます。


ダムの全体像は一番上のリンクからどーぞ。残念なのはダム上を歩くことができなかったこと。比較的新しいダムだけにダム上からの景色が見たかったなぁ。さぞかし良い眺めではないか…と勝手に想像。
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