湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

2/12 懇話会通信No.005配達(平塚・茅ヶ崎南)他

2014-02-13 05:02:10 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/12 記
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先日の**さんから教えていただいた阪神淡路大震災の現場取材者の○○さんに連絡を取る。神戸の方で、関東までは出て行けないが、梅田(大阪)ぐらいまでなら大丈夫とのこと。記憶しておいて下さるとのことで、年内に関西圏まわりを企画しようと考えている。

「石巻赤十字病院の100日間」を借りてきた。

懇話会の通信No.005を配達。平塚、市民活動センター、社協関係者と偶然出会う。関心は高い。全文読んだ上の衆知協力の仕方を質問される。一般公開ではなく、ケア関係者が対象であるとのことも納得されていた。平障連の「生命のことづて」のこともあって、関心がでてきているのかもしれない。計12枚。

茅ヶ崎の作業所1箇所、施設1箇所(投函)。企業1箇所。合計3箇所配達と説明。あと4箇所で終わりなのだが。

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木曜日、先週の母の定期検査の結果診断のために、北里大病院に行く。朝8時台に家を出る。あと3時間。

夜間傾聴>中止

(校正1回目済み)

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2/11 元某政党のジャーナリストさんと会って/他

2014-02-12 05:41:20 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/11 記
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屋根の雪がドサリと大きな音をたてて、寝床の窓の外に落ちて目が覚めた。いかん台所ゴミの回収日だと、あせってゴミ置き場にゴミの大袋を持ち出すと、ばかに小学生の姿が多い。すっかり忘れていた。「紀元節(?!)」だ。とにかく騒々しい思い出ばかりが詰まっている日だ。

年配の主婦に会釈されるが、誰だかわからない。顔が見えないのだ。霞の境目から衣服と体がのぞいている。とにかく会釈を反射的に返したが、いまだに誰だかわからない。両まぶたを指でつりあげると、隙間の映像がはっきりとする。網膜色素変性症に加えて、加齢の眼瞼下垂かいと思いつつ、小さな段差を踏み外し大きな足音を立てた。片目だから遠近感が鈍っている。全くさえない話だと、家に戻った。ろくでもない一日のスタートである。

とにかくゴミを夜に出してはいけないという規則は、ひどく重荷になる。日の出に寝床に就く生活。冬場は日の出が遅いので、昼前には起きるという生活では、横になって1時間から1時間半でゴミ捨てにいかなくてはならない。5時間睡眠が4時間以下に強制される。たかがゴミ、されどゴミなのである。

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昼過ぎに、元某政党ジャーナリストの**さんに会う。団塊の世代のはしりの年齢の強面の方だ。資料を見せると顔が険しくなった。どこの大学のご出身ですかと問われ、ああ、またレッテル貼りが始まったと、この世代の癖を呪う。

ありのままをぶつけるに限る。くだらないところでぐずぐずしているわけにはいかない。はっきり元過激派ですよという。沈黙の後、話が始まった。踏み絵のような話が続き、ふたりとも食べたオムライスが、案の定仲介役になった。阪神淡路大震災の避難生活の日々の、取材体験が欲しいということをぶつけ、用途を要援護者支援の医療・介護・福祉活動のモデル化をしたいのだと告げる。**さんの顔が和らいだ。

彼の語りは、生身の体験を感じさせるものではなく、いわゆる時代特徴を裏付けるエピソードを語るもの、つまり論理を実証していく事例という逆立ちした篩(ふるい)にかけられていた。しかし、ステレオタイプ化した行政・医師会批判となると能弁になった。つまんないのだ。

オムライスの話に話題を転じて、私が語り始めた。糖尿病には、この上のケチャップが甘すぎるが、昔は旗がたっているのがあって、それが楽しみで外食が待ちどおしかった。関西大学の知人の++さんは、そんな幼い歳に、阪神淡路大震災でご両親を亡くされている。その頃、私は長田区のミニFMの後方活動協力をしていたのだから、歳を感じて仕方が無いのだと話す。爺ぃですわな。

実はその後も、有珠山噴火災害の教育現場からの支援もやったが、被災者の言葉が表舞台に、なかなかでてこない。支援者が支援に酔っている、その言葉だらけでね…と語りかけた。

**さんは、記者クラブのようなところと、行政まわりが多く、避難所やNPOまわりは、同僚の##さんの方が場数を踏んでいると、その方の携帯番号を教えてくださった。

結局2時間弱、雑談じみた話をして終わっていったのだが、最後に驚いた。彼は関西に家庭を持っていて、私と会うために新幹線でやってきたのだということ。恐縮してしまった。ありがとうございました。

私のいわゆる調査に手がかりを提供していただいたのだが、例えれば++印刷社までわかっても、&&専務のお名前まではわからなかった。

**さんの話し始めのときの硬さはなくなっていた。

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帰りに、トマトピューレとデミグラスソースを買って帰宅した。母の夕食はオムライス。旗をたてておいた。何で旗かと母に笑われた。そう、今日は「紀元節」、朝日新聞社の記念日(違うか)だからだと嘯(うそぶ)いた。

相変わらず、母は夜間傾聴待機する私の横で、TVのリモコンを握り締めていた。ソチ・オリンピック恐るべし。


夜間傾聴>ひとり

(校正3回目済み)


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2/10 懇話会の通信No.005配布再開 朝の房総半島沖地震 他

2014-02-11 06:33:06 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/10 記
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朝、4:14房総半島南方を震源とする地震があった。マグニチュード5.6、震源の深さ100kmだという。我が家は古い2階建て日本家屋で障子や襖が多い。だから地震センサーのように、揺れると大きな音がする。長かったので、ひやりとした。震度2。茅ヶ崎市の防災連絡システムの反応が早かった。スマホに警戒情報が入ったが、詳細はわからないままだった。NHK総合・東京以外は速報表示も無い。本震が追ってきたらどうなっていただろう。庭に出てみたが、どの家の明かりも消えていた。初動の早い家が少ない。北アメリカプレートとフィリピン海プレートがぶつかっている場所、相模トラフ、伊豆諸島の東方沖だ。(画像)

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相模大野校から召集がかかっていたが欠席した。私の担当している困難を抱えている子たちの話ではなかったからだ。この辺は爺ぃの勝手が効く。

母はデイ・サービスに、私は糖尿病の定期検査で、地元医のところへ。帰りに2つの事業所まわりをしたが、1箇所は当日の会議を理由に、その場で即刻、参加できないと断られた。もう一箇所は、高齢者関係のところだが、認知症を受け入れ、比較的熱心なところ。「施設長が留守なので、渡しておく」と自己判断をかわしてしまった。いつもここは、同じ対応。一応の概要説明はしたので、丁度、丁半博打のさいころを投げたような下衆な嫌な感じ。

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今、来年度の「懇話会の予定」を書いている。仕上がったら、公開する予定。

p.s.大船渡で、医療・介護関連の会議があって、尾道方式、カルテの地域共有化が話された模様。


夜間傾聴>塾長(?)

(校正2回目済み)

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2/9 ソチ・オリンピック放送と夜間傾聴

2014-02-10 06:27:03 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/09 記
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ソチ・オリンピックの中継放送が始まって、今夜はフィギュアをやっていたために、フアンの母がなかなか眠らないで困っていた。夜間傾聴の話は、自分の冷静な状況報告・孤独を紛らわすための雑談・思いつめた子の緊急性を表面的に隠した穏やかな対話の3種類が多い。たまにではあるが、電話が入る。このとき、横で母がTVを見ているというのは困ってしまう。そのどの場合も、TV音・第三者の気配によって警戒されたり、不信感を募らせたりするかだ。

母には傾聴の知識がない。ときには、「くだらない話で、夜中に若い子と遊んでいるのではないよ」と、怒り始めることもある。約束で午前1時前に母は寝室に行き、対話には干渉しないということになっているが、オリンピックが邪魔をしている。「ビデオで観ろ」と私。「スポーツ放送は、なぜかビデオで観るとつまらない」と母。もしここで専用携帯が鳴ったら、雪が残る戸外の線路淵で話さなくてはならないと、ひやひやしている。この傾聴相手の魔の時間(明け方)の引きこもり青少年の孤独に付き合うこと以外に、駆け込み寺の場合があって、これがきつい。

家庭内で衝突があって怒りに任せて飛び出したが、身を寄せる先が無い…と、「確か飛田は湘南で、『湘南は鎌倉だから(!)』、鎌倉で電話すれば泊めてくれるだろうと、東京南部から女子高校生が家出してきてしまった。結局24hファミレスで説得しつつ、夜を明かし、始発で連れ添って自宅に帰したなどということもあったり、薬を飲んだ子(狂言だった)のことで119番連絡となったこともあった。綱渡りのような対話の末、翌朝、PSWさんやらSSWさんに連絡を取る。

今夜は冷や汗をかいていたが、団体戦フィギュアが5位に収まって、母はため息をついて寝室に引き上げたので解決、胸をなでおろした。

今日は、雪かきを済ませたが、雪に耐えられなくなって古い松の枝が折れた。不精して面倒を見てこなかったので、幹の半分が立ち枯れていた。ともかく玄関先と門前までの道を確保し、門は開くよう周辺の雪を払い去った。その結果一番先にこの道を使った来訪者は、庭の通過野良ネコが「餌をよこせ」とやってきた。それだけだった。

今日は、ふたつの作業、ひとつは教材屋の下請け仕事の準備、それとプライマリ・ケア連合学会と気仙沼の本吉病院のレポート探しをしていた。問題は専門職の中に閉じた活動であり、地域の市民活動との接点が無い。個々のすり合わせをどこに求めるか検討していた。

<気になる新刊>
●「災害時の要介護者へのケア―いのちとくらしの尊厳を守るために」



夜間傾聴>なし

(校正2回目済み)

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2/8 雪に封じ込められて

2014-02-09 05:23:23 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/08 記
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雪に閉じ込められた一日。我が家は玄関から門まで10mほどある。そこに雪が積もると、閉じ込められたようになる。雪かきが虚しくなるような天候。曾祖母の通院・祖父母の通所・父の通所それぞれに、雪の上を車椅子で送迎した記憶がよみがえる。雪が少ない湘南だから、介護の日々の長さを改めて思う。

父の遺品を片付けるとき、私の野良長靴も処分して、我が家に長靴が無くなったところで雪が降った。裸足サンダル履きで門まで行き、新聞を取ろうとして驚いた。門が雪に塞がれて開かなくなっていた。雪かきの道具を取りに戻ろうとしたら、サンダルが脱げて行方不明になった。門の先にも駐車場に使う私道が更に10mほど雪に埋もれているのが見えた。結局サンダル右側は遭難したままになってしまった。数cm積もっただけで、車椅子を車のところまで送迎する道作りの雪かきだけで、大騒ぎだったことを思うと、今日の積雪は、ただ笑うしかない。

私大入試も遅れて、受験生が不安だったろうと思う。やむを得ず、オンライン連絡で進められることを行うこととし、母の勘違いでもつれた介護タクシーの&&さんのところに電話を入れた。しかし、応答は留守番電話で、臨時休業のアナウンスが出て、勝手に切られてしまった。明日は休み。困ったなと思いつつも、しかたがない。

来いとはいわないだろうから、フィリピン高波被災者支援の報告会の様子を塾長のところに電話をかけて聞いてみた。誰も来ないから中止とのこと。サンダル遭難の話をして、今日は無理だろうと言ったのが癪にさわったのだろう、咳払いが聞こえて電話が切れた。失言ごめんなさいな。

「ミニカフェ(またはお食事会)」は、「わーく」の取り組みである。懇話会は、被災地ゲスト招待を個性とする現場主義懇談を積み上げていく。ミニカフェは、地元近隣の災害関係者との私的な対話を行う、懇話会を補佐する企画だ。関係画像を見るのもいい。私とゲスト+α程度の昼食会のようなもの。ライオンズクラブ昼食会の災害プロパー貧弱版みたいなものだ。弁当程度でゲストを呼ぼうというとんでもない企画だが、公開すれば変な組み合わせの対話が出来るだろう。

これに対し、懇話会のゲストは、医療・介護・福祉関連の方を、被災地から招待する上、皆の納得のいくであろう現場の香りのする方を優先して選んでいく。勿論それは、東北被災者との連携と湘南の防災にとって意味を持つ方という条件がついている。医療・介護・福祉関連活動への触媒・種まき活動である。

要するに、両者とも災害ボランティア活動の下地を醗酵させる活動である。あとは現場にたつ方々が持ち帰った情報・印象を現場で活かしていただけば、懇話会の目的は達せられたことになる。

雪は地面の反射音を吸収するので、風の音しかきこえてこない。
静かだ。

母の消化管の調子を考えて、茶碗蒸しを作ることにしたが、蒲鉾も鶏のささ身もない。鶏鍋用だし汁(余り)があるのでシロだしで調整。電子レンジではなく蒸し器で蒸す。せいろでもいい。母は文句をいうに決まっている。すが入らないようにチェック。母に食べさせたが、鶏肉の皮がしつこいというのだ。制止を無視して、皮付の鶏肉を汁の中にいれたのは母だ。まあ70点。

来週から今度は教材屋仕事が本格化する。深呼吸。

夜間傾聴>ひとり

(校正2回目済み)

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2/7 ふれあい朝日の##さんの取材は逆につき合わせてしまったようで

2014-02-08 05:10:49 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/07 記
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家事を済ませて、午後、ふれあい朝日の##さんと茅ヶ崎駅前で会った。災害ボランティアについての記事だとのことだが、私の活動は慈善活動とは違う。もし情念的な言い方をすれば、「お互い様」が原則となるだろう。私は「善意の観客」ではない。加えて、私の活動は市民活動というより社会活動であって、まとめて書くとき、記者さんが苦労するだろうということは容易に想像がついた。とにかく私の活動は、切り口(取り組み)がひとつではない。おみやげ(資料)を用意しておこうと、過去のチラシ類を集めた。

##さんと再会した。##さん、風邪をひかれているご様子。私に割いている時間をはじめに伺った。自由にしたら、話を始めたら一日中話すことがあるからだ。

##さんの質問に答える形ではなく、一方的な自己紹介を語る、寿司詰め情報提供を選んだから、##さんのお風邪を悪化させたのではないかと思う。

大型災害の避難生活時、私たちは従来の「迷える子羊救済型」の支援では、はみだしてしまう事態に晒された。被災者自身の自主防災と相互協力、自己判断が求められ、全国からのボランティアの力も、しっかりと位置づけておかなくてはならないという経験をした。だから新たな災害ボランティアの形を常に意識していきたいと考えていること。私の活動の特徴の「モデル化」の根拠を説明した。

もうひとつは、被災地に出かけることが可能な方を、受け皿を作って束ねていくという活動の作り方への懐疑だった。受け皿を作る側の想像力が問われた。その活動の中から登場する新たな活動を誰が取り上げ、集団に返していくか、その部分が成り行きに任されている。つまり活動から得られる経験を定式化していく意思が今回も見られなかった。

過去の災害の避難生活が、避難所から仮設住宅中心に移ったという境が、非現地活動の退潮の始まりであり、この後、つまり被災後数年に顕在化する被災者の孤立化が放置されるという弱点が、一向に解決されないという、支援活動の想像力の限界、それを超えたいと私は考えた。現地活動参加を「お手伝い」として、行くこと自身を目的化して満足してしまう情熱が、活動形成の吟味に結びつくことが無い断層がある。ベクトルが違うので、発想の中に、それが芽すらないのだ。

私は「連携」の道を探り、その上に活動を再構築している。##さんには、私の様々な活動事例を紹介し、特にハイティーンズという災害時、学生服を脱いだ名前のある個人として、地域の有力な力になることを説明した。学校文化が彼らを高校生という服を着せて束ねてしまう。彼らが地域デビューする貴重な場面を私たちはひらきましょうと、提案してきた。

仮設生活期以降の支援活動のあり方を、私は医療・介護・福祉の領域から探っている。また避難生活と現場活動のそれぞれの現場の生身の感覚を引き込みために、被災地からゲストを呼んで、ケア関係者が場面中心の懇談をする懇話会を作った。非結論決定型の、「ヒント持ち帰り懇話会」という「活動の種まき」をしている話をした。

個人医療情報のQRカードとトップダウン型活動の障壁の話をしたり、引きこもり青年の社会参加と災害ボランティアのつながりのこと、ペットレスキュー活動のことetc.語り続けて1時間ちょい。話を終えた。##さん、お疲れ様でした。記事にならないでも文句いいませんので。

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帰りに図書館にたちより書籍更新をしたが、また違和感。ここの図書管理システムは、どこでつくったのか、穴だらけ。私の予約は10冊が限界なのに、12冊入っていた。そのことを告げると、またあなたですかという感じ。今のシステムに切り替わったとき、ISBN-10とISBN-13の相互変換がバグっていて、別の書籍になってしまうという信じられない事態があった。その次が予約の多重登録のバグ。そして今回の予約冊数の限界設定のバグだった。ありがとうの一言も無い応答。それならいっそ、平塚・藤沢で使っているシステムの方がましだと思う。IDを打ち込む窓のところに、いたずらされないように、無変換の半角のみのガードをかける細かさがあるにもかかわらず、本道がバグっていたら何もならない。

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偏屈爺ぃ、懇話会の通信No.005を持って、作業所まわりを4箇所済ませ、明日の雪対策に食料を買い込んで帰宅した。

母が嫌な顔をして待ち構えていた。介護タクシーから何回も電話があったというのだ。母は父が他界したことを告げて電話を切ったが、タクシー会社は失礼だと怒っていたのだった。参った。これは、来年度の懇話会の複線で「ミニカフェ(お食事会)」のお食事相手に「介護タクシー」さんを入れていた。そのゲスト打診をした返事だったのだ。幸い笑って許してくれたが、母の疑念は、背景がわからないから、ますます深まるばかりなのだった。

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もう15年もあっていない東京南部の塾時代の卒業生%%君から、突然電話が入った。ソチ・オリンピックの開会式の録画をしておいてくれというのだ。驚いた。彼は**子の友達で、自閉症スペクトラムを抱えていた。小さな中華スナックで働いているという。しかしびっくりした。

私大入試の前日、相模大野校の専任講師たちは、激励(プレッシャー)電話を入れている。講師のひとりから、風邪で声が出ないと電話で愚痴ってきた。「激励電話なんてやめて、暖かくしてオリンピック開会式でもみていなよ」と忠告した。相手がむっつりしているのが伝わってきた。来週の県立高校入試は会場まで行くのだなと思う。お疲れ様である。

夜間傾聴>なし

(校正2回目済み)

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2/6 母の北里大附病院の定期検査に付き合って

2014-02-07 05:07:32 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/06 記
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母の定期検査は北里大東病院で、9時半から行われた。2時間前には家を出ていないと病院前の渋滞で間に合わないことは、経験的につかんでいた。昼夜逆転の私には徹夜となるが、それ以上に、検査のために前日から食事を摂っていない母の体調が心配だった。

ところが朝、問題が起きた。生協の食品の定期配達日が重なっていることに、気がついたのだった。冷凍食品を捨てる気持ちで付き添いを主張する私と、冷凍食品が勿体無いという母とのつまらない口論だが、雪が降りそうな凍てつく朝に、脂汗をにじませて反論する母に負けて、私は生協の食品を受け取ってすぐに、母を迎えに出かけることに話が落ち着いた。

こういうときに限って生協の配達が1時間遅れ、出発前に母に電話をいれると、すでに検査を終えて相模線で茅ヶ崎に向かっているという。迎えはいらないという母。ならば茅ヶ崎駅で、もう一度電話をと頼むが、まっすぐ帰るという。

結局私は付き添いせず、母はしっかりと茶の間に戻ってきた。しかし、その時点で腰が抜けたのだった。ぞっとした。高齢者と生活するということは、限界の舟板一枚の上に踊ることだという感覚が私にはある。それを踏まえて有限の自由を楽しむというバランスを意識して生きるのだ。転倒すれば大腿骨骨折で車椅子生活になってしまうのが高齢者、そこに気力の歯止めがなければ、精気は霧散し、死へと、ころがりこむことすらある。ばかばかしい日常茶飯事が、常に吟味の俎上に乗せられなければならない。ここにはいかなる支援者も割り込みようの無い老いの深い闇がある。

来週も木曜日に検査の結果を聴きに行かなくてはならない。生協のセンターに連絡を取り対策を打った。

母の消化管(胃は切除している)は、胃カメラに塗られたキシロカインが付着し残っており、前日からの絶食で腸は空っぽの状態なので、重いものを食べさせるわけにはいかなかった。ポン酢でpHを整えた。ぬるめのおじやから食べさせた。しかし母の体調が戻るまでには、結局夕方までかかった。母はベッドで昏睡状態となり、睡眠不足の私も、茶の間にうずくまり、医者の融通の利かなさを呪った。

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寿町のL.プラザの就労支援センターの%%氏から午前中に電話が入った。しばらく連絡が無いが、彼は大丈夫かとの問い合わせ。就労先を自分で見つけたから、一応の支援は中止しているが、彼からの相談はいつでも受けられるように、しているつもりでいると答えた。彼は短気の魔が頭をもたげやすいから、ここしばらくは、お節介でも待機していくと答えた。

今日に限って、いつもよりも仮眠を邪魔する電話&メールが続いた。

一件目は、ふれあい朝日の記者さんから、災害ボランティア関係者にインタビューしているが、私の話も聞きたいという酔狂なメールだった。元気をつけてもらうために○○を贈ったとか、演奏パフォーマンスを贈ったというような話は直感的に読者にわかる。ところが私の活動は、真意をつかむのに、経験という条件がいる。活動は時代状況という海のなかに泳いでいる生き物だ。空気を気づかないように、今、打つ手はなにかと考える話は、ボランティア間でさえ問いの理由が全く通じないことがある。だから、私の話は記者さんの期待される話にはならないという、もともとの諦めがある。一応明日、会うことになるが、この方とは、別の話でも取材を受けたことがあり、その以前の話も宙に消えた。湘南オンラインフレネ初期の頃だ。

二件目は平障連からの相談だった。「映画:生命のことづて」の概要についてだった。事前解説が必要か否かとか技術的な相談だった。

三件目は、父の四十九日の関係で、古い知り合いの市外の民生委員が訪ねてくるという話だった。事情を説明し、今、母が体調を崩して休んでいると応答し断った。実は私に眠気の波が押し寄せて、一時も早く電話を切って眠りたかったのだ。

四件目は相模原の塾長からフィリピンの高波被災者支援を立ち上げる報告会をやるからでてこいというものだった。無理ですと断った。

五件目は石巻赤十字病院の支援活動をした知人からだった。話題が多すぎて懇話会の限定された時間内では入りきらず、絞り込む必要があったので、焦点を相談したかった。会いたいと連絡し、問題意識も伝えておいた。じつはこの日、某政党系ジャーナリストと食事をすることになっていた。

六件目は、私の送ったファスナー財布が仮設で評判がでたというので、これを作らせたいという支援者からの電話。これは私の独創ではなく、某教育団体の授業実践に登場したことのあるものだという前置きをして、仮設のお茶会の手作業商品にならないかという相談要請に答える意味で、口頭説明を録音してもらって、電話を切った。

珍しく電話が集中したのだった。

夕闇が迫るまで、私は茶の間に臥せっていた。深谷ネギがあったので、鳥なべを準備し、米を研いでいると母が起きてきた。一日つぶしてしまったねえという母。たまにはいいと嘯きつつ、実は肩腰が寝相のせいで痛むは、四肢は「つる」は、うっかり動くと危険な体勢となって、原因に気がついた。低血糖である。糖尿病の常備薬を時間外に飲んだ祟りだった。ブドウ糖で劇的に解消するのだが、奇妙な意地。飲まずに回復させたかった。

今もこうして、夜間傾聴待機をしているが、もうひとつの問題があった。台所のゴミ出しなのだ。前夜から生ゴミをだしていけないという取り決めがある。日が昇らないとゴミが出せないのだ。睡眠後だと市の回収車が行ってしまう。つまり生ゴミのために、早めに眠ることが出来ないでいる。馬鹿な話である。


夜間傾聴>なし

(校正2回目済み)



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2/5 49日だというので…/親の無理解は世代交代しても 他

2014-02-06 04:07:51 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/05 記
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どう父が葬儀を嫌い葬儀を避けると伝えても、周囲はいわゆる仏式の流儀に則って、49日だからと我が家を訪問する。今日、我が家にやってきた四人も、告別式に49日は無いと説明しておいたにも関わらず、そういうものではないと受付けなかった人々だ。寺と墓地はどこかと問う。骨壷は茶の間にあると伝えると、険しい表情になる。こういう事態は予測されたので、今日は就寝時、自宅用の固定電話のモジュラージャックを抜かずに、対応を母に任せた。傾聴が終わるのが午前5~7時だから、午前中に授業がないときは、午前11時ごろまで眠り、不足分は、合間の仮眠で埋めていく。ところがその生活自身が彼らには非難されるべき不摂生でしかない。

10年前ごろまでは、何人かの命の境の迷走の魔の時間、引きこもり青少年の孤独に伴走してきた。今は、JR相模原の塾を経由してきた特定の子と、東京南部の塾の卒業生の紹介の子たちが、利用しているに過ぎない。しかし貴重な時間なのだ。

朝8時前、茅ヶ崎駅にいると2人から電話があり、連絡なく家にやってきたひとりと、午後の出先に車でやってきたひとりの3組に起こされてしまった。だから今日は一日中、朦朧としていた。

なんとか二組が帰った後、包括支援センターの**さんがアポなしで現れた。母の様子見と月例の予定表を持ってきたのだ。私は出かける時間だったので、挨拶をして出かけたが、母に不可解な私のことをあれこれ聞いていたという。

母は私が塾などやっていないと応答したという。二十年ほどまえに、自営の塾は閉鎖した。その後は、雇われる身となって、講師を続けている。その意味で「塾は、やっていない」と答えたのだという。

確かにそれで生計をたてているわけではない。老後の手慰みと言うには早すぎるという程度、やっている自負はあるし、深夜声を潜めながら、怪しい会話をしているのも私ではある。しかし、夜中に出かけていくことや、時には巡査が我が家を訪問していたことも、実は母は全く意味が通じていなかったのだとわかった。身近に危うい話が交錯していることを知らないことは、かえってよかったのかもしれない。

茅ヶ崎市立図書館で、書籍貸し出し更新をしたあと、石巻赤十字病院関連の著作をチェック。あらためて地方図書館のザル状の現状を知らされたようなものだった。

県保健福祉茅ヶ崎事務所に通信No.005を配る。ああ、あれですねの「あれ」に、やっと進化した。課内居回覧しますと快諾してくれた。これで当日参加してくれれば、文句は無いのだが。(前回は初登場)

育成会のポストに投函の後、身体障がい関連の施設「にりん草」に届けようとして、浜之郷の迷路に迷い込んだ。タイムリミットがきて、結局、茶屋町からバスで駅に戻った。

相模大野校で面談。会議は睡魔の中、船頭よろしく舟をこいで帰宅となった。あれは放っておけばよろしいとばかり、相手にされない。定年カウントダウンの事務長は、高校生よろしく、股の間にスマホが見え隠れする。面談も緊張性腸炎の相談。親は心配するが当人は一年かけて、とうに克服していた。知らぬは親ばかりとは、古今東西変わらぬものと見える。

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ぶり大根をつくるために、戸塚産大根1本抱えてバスに乗る。私より上の世代の男性の侮蔑の目あり。しょうもないひとたちだなと思う。

●「石巻赤十字病院の100日間 : 東日本大震災医師・看護師・病院職員たちの苦闘の記録」を読み進めるはずだったが、睡魔が許さず、本を閉じた。

まもなく傾聴待機時間終了、明日は母が北里大附病院に精密検査を受ける、私も付き添う。あと2時間、ともあれ仮眠を取る。

夜間傾聴;ひとり

(校正1回目済み)

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2/4 懇話会通信No.005配布開始/雪が降る 他

2014-02-05 05:49:00 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/04 記
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3/10の懇話会会場の減免手続きを取る。支払いを済ませ、正規登録完了。ひと安心。しかし会場が大きすぎる。

これから会議という市障害福祉課の**さんと出会う。懇話会通信No.005を渡すが、何だなかなぁ。ともあれ、よろしく。

市障害福祉課で、減免手続きを取りながら企画概要を話すがすでに知っており、あああれねという感じで受付が済み、通信は課内回覧することに。連続物の効果を読み取るのはまだ早いか。

市保健福祉課・市防災対策課・市高齢福祉介護課・市市民自治推進課も巡回説明。受け取りはスムーズ、おや?という感じ。

高齢福祉介護課は今回直接は関係しない課。そんなこともあって、時間をもらって、なぜ関係なさそうな企画案内を持ち込んできたのかを、いつもの担当外の方に説明。担当者お留守。しかし応答は、聞いていますとの話で、受け取ってくれた。聞いています…なの?と拍子抜け。

エレベータ内で秘書課の##さんと出会う。これまた通信を渡す。いつも反応0だが、市議会事務局にも配布。出会ったのは、上野千鶴子氏講演会参加者のふたり。身体障がい者団体の方1名、民生委員さん、1名。

市社協は、雪が降りそうという話と、ビッグイシュー値上げの話ばかり。回覧はしてくれるだろうが、どうも調子がはずれる。

サポセンに個別配布と、減らない展示コーナーにも5部。

雪が降りしきる中、トレインと元町の家配布。包括支援センターにもとりあえず2ヶ所。シリーズ参加が約束だから、まあ納得はしてくれた。

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朝9時過ぎ、河北新報東京支社の&&さんから連絡が入る。石巻赤十字病院の医師はどうかと探してくれた。確かに石巻赤十字病院は救急医療と救急地域医療で、吟味の収穫が見込める大事なポイントだが、救急医療の対象圏内の民間協力なり医療支援活動の側からみると、専門職活動との切り分け論議にいまひとつ空転が残る。

7月にプライマリーケア連合学会の特に、PCAT会員の医療関係者に講演依頼を出している。プライマリー・ケアとは「簡単に言うと『身近にあって、何でも相談にのってくれる総合的な医療』」(同学会HPより)避難生活の避難所巡回や仮設訪問巡回など、医療ケアを支える活動になるが、同学会の活動地域事例などが絞れず、現場主義でいくと語った懇話会の議論には、打ち合わせ不足があると、一般論に陥り易い。急性期の医療・介護サポートと医療活動支援活動の話は、秋~冬場に考えているのだが、この後発企画を優先するのが有りか、たどりなおしている。障がい者・高齢者生活サポートとの接合点からは、プライマリー・ケア連合学会の話の方がつながり易い。思案中。

私の知人が居る置き薬販売店と先日電話話をした。やはり関心を示したのは、プライマリー・ケアの話のほうだった。個別でかまわないから資金援助を御願いできないか打診を続けている。

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就労支援の関係の公共支援から連絡有り。あれ?と思う。今年はとにかく早く青色申告を終わらせ、ジョブコーチ筋の恒例見学会に参加したいと思ったが、その件かもしれない。明日確認。

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半額売りの「ぶりトロ」の塊を入手。そのまま刺身で出しても母は残す。ストーブのそばで、芯からの冷感を除いておき、本来ならガスバーナーを使うが、塩を振ってレアの網焼きを作った。太葱を焼いたものを脇につけ、生姜と大根おろし、ポン酢で食べさせた。…上から醤油…だめだこりゃと思っていると、きれいになくなった。温感と焼き具合の食べ時管理が難しいが、故祖母にも使った栄養管理食なり。母のは無残。

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イーハトーブ湘南の%%さんにバリバラのアーカイバを紹介。障がい者の避難生活の関心を高めるためということなら、笑えるほどの直球勝負作品。

NHKドキュメントの番組に、災害避難所の管理者の視点からの語りが登場。ホテルと宿泊者のような事業者と宿泊客の関係を思い込んで、注文を言いつける利用者さんが登場した。自主組織の場合も、いつも利用客の立場からのサービス・クレームがつくことは覚悟しておかなくてはならない。ストレスフルな環境の中で、活動が精神的に追い込まれる契機がこれだ。

明日は相模大野校に行く前に、県保健福祉事務所に立ち寄る。

JDF本部は来週訪問か?

夜間傾聴:ひとり(レギュラー)

(校正1回目済み)

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2/3 豆腐の角に…

2014-02-04 05:18:34 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/03 記
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懇話会の通信No.005を持って、慈恵医大眼科へ。

視野検査はさんざんだった。検査の結果ということではなく、視野に輝点が現れた瞬間に押しボタンを押すという長時間注視が耐えられなかったのだ。ふっと睡魔に引き込まれてしまう。瞬きがでる。その都度、検査士さんに注意されるが、また眠ってしまう。患者さんの順が詰まっていて、ソファーに座って、待っている人数がたまってきたため、「目を覚ましてきてください」と追い出された。検査がやり直しになったのだった。昼夜逆転人間。睡眠時間は4~5時間で眠りが浅いという日々。つけが、こんな形で現れるとは。

主治医と会えるのは、年1~2回の予約制、空きがない。網膜色素変性症は難病指定なので、優先してくれるが、大学病院の外来はこんな状態なのだ。治療法はなく、ただ進行を遅らせる薬が出るだけだ。病院内の喫茶でコーヒーを飲んで再挑戦。叱られながら、やっと検査を済ませた。

検査結果は憂鬱なものだった。失明寸前の右目の視野の明るさ・色の判別能力が落ちていたし、まともな部分が多い左目も中央部分の視細胞が減っていた。進行は速くは無いが止まっていないという結果だった。症状はマイルドで進行も遅いから、節制すればいいと言われた。いつか必ず失明するので、視覚障害関連機器の訓練をしておくのもいいという。落ち込む時期は過ぎている。しかし、失明が100才になったときか、明日かその予測もできないという。今を生きていく。命あればいいではないかとひとり言をいうが、ちっともよくないのだった。

次回は11月(!?)、またまたびっくり。

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検査をやり直したので時間が無くなり、帰りの立ち寄り先は、銀座の河北新報東京支社だけに絞った。訪問は2回目、記者さん個人に御願いしたのではなく、会社に御願いしたのは、今回初めて。

宮城県の医療・ケア関連の記事を執筆されている記者さんを紹介してもらえないかというものだった。例えば徳洲会病院の被災時の連携治療があったとする。医師だけではなく、看護師・レントゲン検査士・薬剤師・OT・PTさん等のチームプレーがあったから、修羅場を乗り切れたのだろう。この薬剤師さんにスポットを当てて、現場の香りと直面した課題をいかに超えてきたかを語ってもらうには、誰から当たればいいかという実践的なガイドを求めたのだった。

かなりの無理難題を御願いしたのだ。**氏は通信を見ながら、宮城の記者探しに協力して下さった。応答待ちに入ったのだった。取材先は一応の目星と目的を持ったところを、数箇所選んである。ただ医療は現在進行形であり、神奈川に抜け出せる方、出来事の課題を語れる方をどう探し出すかという状態にある。協力して下さった河北新報東京支社の皆さん、**部長、お手数かけました。

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++さんから、懇話会参加の意思表示メールをいただいた。こちらこそ、よろしく。

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横浜で途中下車。ビッグイシュー2/1号を販売員さんから入手。するとビッグイシューの値上げのお知らせが。消費税値上げを前に、現行の300円/冊から、350円/冊に変更するとのこと。ただしこれは、1冊の冊子のページを増刷し、1冊あたり、路上生活脱出を目指す販売員さんの取り分180円、社の取り分170円とすることとするとのこと。

売り上げ減少が心配との事。

早速、茅ヶ崎到着後、3冊を常連さんに届けてきた。

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叔父さんが我が家に来ていた。あ、四十九日だと気づく。何をどう説明しようとしきたりは曲げない方。勿論、家制度は厳守の方。しかし、「それはそういうものだ」という脅迫的理解がやたらにある。「なぜそうなのだろうか」という問いを封じることで、折につけぶつかってしまう相手だった。先方からは、屁理屈・常識知らずの輩であり、母からは「男はどうしてこうも不器用なのだろう」となる。頑固爺ぃのにらめっこ。まあ当分会うことも無いのだが。

外食、炭水化物取りすぎ。ちなみに今夜は、豆腐の味噌汁という凶器の味噌汁だった。節分なり。「豆腐の角に…」


夜間傾聴>なし(!)

(校正1回目済み)


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2/2 上野千鶴子氏講演会に久々に参加したものの 他

2014-02-03 05:47:52 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/02 記
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S-Net 主催の上野千鶴子氏講演会(会場:JA茅ヶ崎)を聴きに行ってきた。講師の相変わらずのクリアな言葉。ただ、話題がぶつ切りで、上野社会学の1ルーチンが見えたかと思うと、その流れの途中で次にいってしまう。口惜しい想いあり。成人後見制度を進めている団体だからこそ、上野千鶴子流・人生の自己決定権につながるのだなと納得。

よせばいいのに、母が買い物が足らなかったと平塚に出かけた。懇話会の通信No.005を講演会終了時、関係者に手渡ししようと構えているところに、母から携帯に緊急呼び出し。またかと思うが、いかなくては、もしもが怖い。会場を途中退席して駅の改札口へ。母が茅ヶ崎に戻るというので改札口で待っていると、隣に育成会の**さんがいた。全然気がつかなかった。これ幸いと通信No.005を渡す。

そこに母が現れた。要するに荷物持ちをして欲しかったのだ。

明日は慈恵医大眼科の定期検査の日、帰りに河北新報東京支社か、JDF本部のいずれかしか回れないだろうが、寄ってくる。懇話会の自己紹介資料を書き上げ、印刷する予定が、母の攪乱に会っている。外食の夕食の場で、箸を片手に仕上げをしコピーへ。目の前の母が苦虫を噛み潰したような顔をしている。明日、もって行くのだからやむなし。しかし、視野検査が怖い。外見上視野の白濁はないのに、薄いすりガラスの向こうを眺めるように、視野の解像度が落ちている上、悪い右目の中央が、色の識別もできなくなってきたからだ。明らかに網膜色素変性症は進行している。それが裏付けられるのが怖い。

阪神・淡路大震災時の神戸新聞の記事を深く読み込んだ方と偶然知り合った。某政党系ジャーナリストだった方だ。奈良**MLの会員の紹介。本当は取材した方と会いたいのだが、この方は、どうも関東にいらっしゃるようだ。バイアス修正は可能なので、仲介を御願いした。福祉避難所の様子や、福祉事業所・施設の急性期乗り切り活動の様子が知りたい。

国会図書館のカードを、引き出しの奥で見つけた。しばらく使っていなかったが、DBのアーカイバ端末が県図書館レベルで利用できるようになりそうだからいいタイミング。しかし、つかうのは、一日仕事。阪神淡路大震災だけでなく、「3.11東日本大震災 : その時、認知症の人と家族は・・・」や「東日本大震災2年目の活動記録 : road project」などが読めそうだ。大学図書館OPACルートだと入手に時間がかかる。

JR相模原の塾の塾長がフィリピンから帰ってきていた。活動の幅を広げるゆとりなし。フィリピン支援は、ご容赦を。

夜間傾聴:**子の近所の和尚さん(近況)

(校正2回目済み)

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2/1 懇話会通信No.005印刷完了/イーハトーブ湘南の**さんと

2014-02-02 05:23:36 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/01 記
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茅ヶ崎サポセンにて、イーハトーブ湘南の**さんと会う。映画「逃げ遅れる人々」上映をめぐる調整。頑張って下さい。

懇話会の通信No.005を印刷。母が平塚駅で遭難。久々の「めまい」。迎えにいく。香典返しの薄墨筆や品物を注文しに行っていたが、あれこれ考えているうち気持ち悪くなったとか。荷物を預かり、茅ヶ崎駅からタクシーで帰宅させようとしたが乗らない。おかしいなと思っていたら、私が社会活動ばかりで、(母の)相談に乗らないからと自白。「ばかり」は濡れ衣だが、孤立感があったらしい。反省…と思いつつ、母をタクシーに押し込んで、私は通信を某共同作業所に届けに行った。「反省」は嘘、私は天国に行くつもりはないので、現世地獄渡るも修行と悪びれてみる。

明日、上野千鶴子さんの講演会にいく。懇話会は一般向けではないから、チラシ配布はしないが、通信個別手渡し、間に合った。

今日午前中は、茅ヶ崎市の「げんき基金」説明会だった。懇話会は対象が「ケア関係者」となっている。ケア関係行政・民間団体の主導者(アクティブ)が中心。一般向けの公共性が問われる「基金」には条件が合わない。助成金探しは諦めるか。

参加者が少なくても、懇話会の補完企画で、夏場に被災地ツアーをやりたい。規模数名。被災地作業所・病院・関連行政回り。現地1泊。金が要る。

通信No.005を某作業所の職員##さんと話す。大きな差異がみえてきた。発想が東日本大震災被災者支援なら通じるが、防災がらみになると、感覚が弛緩してしまう。南海トラフや首都直下型地震にリアリティがないので、「個人情報開示」や「医療・介護・福祉の専門職活動のバックアップ活動の民間活動モデル化」や、「ケア関係者横断セイフティネット・モデル化」の活動の芽作りの発想が通らない。難しいなと思いつつ、従来の被災後の支援活動の表層盛り上がりと、仮設入居を境にする霧散の繰り返しを限界として述べる私と、あとは上からの指示を待つから大丈夫と考える##さん。轍を踏む「轍」を想像する場面の空転あり。

岩波新書の「看護の力」を買って帰る。「自立支援の実践知」と、「自閉症の倫理学」2冊図書館予約。

夜間傾聴>ひとり

・今日は異様に車が混雑していた。家族の外出が多かったのだろう。いつも親を気にして家庭内固定電話から電話してこない&&君から、珍しく連絡があった。案の定、家族は留守だという。

p.s.
あんこうの肝を買って帰る。鍋物を母に食べさせようとしたのだが、母はカレーライスを食べていた。空転の一日なり。あん肝の端くれを我が家の通過猫(野良)にやる。はかない抵抗なり。

(校正1回目済み)

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1/31 懇話会通信No.005 完成 他

2014-02-01 06:15:52 | 地震津波災害ボランティア

2014/01/31 記
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懇話会の通信No.005を仕上げた。今回はゲストに、日本障害フォーラムいわて支援センター事務局長の小山 貴氏を招いての企画。南相馬市と陸前高田市が支援団体に市の個人情報を開示することにより、陸前高田市全市のアンケートを実施につながり、この3年の訪問支援が変わった。

この「被災時の個人情報開示」及び「東北被災障がい者の訪問支援」「東北の被災障がい者の現状と連携支援の道」について、懇談をセットした。小山さんは、当日ダブルヘッダー、お疲れのところを御願いしている。感謝。

----- ここから「通信原稿」------------

☆第4回懇話会☆
~障がい者の被災後、避難生活の現状と訪問支援
 (陸前高田市の個人情報開示と全市アンケート)~
ゲスト :小山 貴 氏
     (日本障害フォーラム
         いわて支援センター事務局長)
日 時 :2014年3月10日(月)18時半~20時半
場 所 :茅ヶ崎市役所コミュニティホール5F会議室
     (予定)
費 用 :100円(コピー代)
対 象 :ケア関係者
内 容 :被災後、陸前高田市の障がい者は、長期にわたる避難生活を余儀なくされています。全国に先駆け、市の個人情報開示が行われたことによって、市内の訪問支援がどう変わったか、今、援助が必要な現場のニーズは何か、懇談の中から連携の道を平行して探ります。

----- ここまで「通信原稿」-------------

就労支援をしていた方が、合同面接会がうまくいった模様。
彼の自力なり。拍手。

イーハトーブ湘南の方と明日、情報提供で出会う。役に立てればいいのだが。しかし活動は生き物。実情にフィットした活動を立ち上げるフットワークが大事だが、通じるだろうか。

明日は、げんき基金説明会が午前中にあるという。医療情報QRカードや、懇話会もそれぞれの理由で申請のタイミングにない。悔しいが、今回は見送りなり。


夜間傾聴>ふたり


(校正1回目済み)

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