湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

2/11 元某政党のジャーナリストさんと会って/他

2014-02-12 05:41:20 | 地震津波災害ボランティア

2014/02/11 記
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屋根の雪がドサリと大きな音をたてて、寝床の窓の外に落ちて目が覚めた。いかん台所ゴミの回収日だと、あせってゴミ置き場にゴミの大袋を持ち出すと、ばかに小学生の姿が多い。すっかり忘れていた。「紀元節(?!)」だ。とにかく騒々しい思い出ばかりが詰まっている日だ。

年配の主婦に会釈されるが、誰だかわからない。顔が見えないのだ。霞の境目から衣服と体がのぞいている。とにかく会釈を反射的に返したが、いまだに誰だかわからない。両まぶたを指でつりあげると、隙間の映像がはっきりとする。網膜色素変性症に加えて、加齢の眼瞼下垂かいと思いつつ、小さな段差を踏み外し大きな足音を立てた。片目だから遠近感が鈍っている。全くさえない話だと、家に戻った。ろくでもない一日のスタートである。

とにかくゴミを夜に出してはいけないという規則は、ひどく重荷になる。日の出に寝床に就く生活。冬場は日の出が遅いので、昼前には起きるという生活では、横になって1時間から1時間半でゴミ捨てにいかなくてはならない。5時間睡眠が4時間以下に強制される。たかがゴミ、されどゴミなのである。

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昼過ぎに、元某政党ジャーナリストの**さんに会う。団塊の世代のはしりの年齢の強面の方だ。資料を見せると顔が険しくなった。どこの大学のご出身ですかと問われ、ああ、またレッテル貼りが始まったと、この世代の癖を呪う。

ありのままをぶつけるに限る。くだらないところでぐずぐずしているわけにはいかない。はっきり元過激派ですよという。沈黙の後、話が始まった。踏み絵のような話が続き、ふたりとも食べたオムライスが、案の定仲介役になった。阪神淡路大震災の避難生活の日々の、取材体験が欲しいということをぶつけ、用途を要援護者支援の医療・介護・福祉活動のモデル化をしたいのだと告げる。**さんの顔が和らいだ。

彼の語りは、生身の体験を感じさせるものではなく、いわゆる時代特徴を裏付けるエピソードを語るもの、つまり論理を実証していく事例という逆立ちした篩(ふるい)にかけられていた。しかし、ステレオタイプ化した行政・医師会批判となると能弁になった。つまんないのだ。

オムライスの話に話題を転じて、私が語り始めた。糖尿病には、この上のケチャップが甘すぎるが、昔は旗がたっているのがあって、それが楽しみで外食が待ちどおしかった。関西大学の知人の++さんは、そんな幼い歳に、阪神淡路大震災でご両親を亡くされている。その頃、私は長田区のミニFMの後方活動協力をしていたのだから、歳を感じて仕方が無いのだと話す。爺ぃですわな。

実はその後も、有珠山噴火災害の教育現場からの支援もやったが、被災者の言葉が表舞台に、なかなかでてこない。支援者が支援に酔っている、その言葉だらけでね…と語りかけた。

**さんは、記者クラブのようなところと、行政まわりが多く、避難所やNPOまわりは、同僚の##さんの方が場数を踏んでいると、その方の携帯番号を教えてくださった。

結局2時間弱、雑談じみた話をして終わっていったのだが、最後に驚いた。彼は関西に家庭を持っていて、私と会うために新幹線でやってきたのだということ。恐縮してしまった。ありがとうございました。

私のいわゆる調査に手がかりを提供していただいたのだが、例えれば++印刷社までわかっても、&&専務のお名前まではわからなかった。

**さんの話し始めのときの硬さはなくなっていた。

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帰りに、トマトピューレとデミグラスソースを買って帰宅した。母の夕食はオムライス。旗をたてておいた。何で旗かと母に笑われた。そう、今日は「紀元節」、朝日新聞社の記念日(違うか)だからだと嘯(うそぶ)いた。

相変わらず、母は夜間傾聴待機する私の横で、TVのリモコンを握り締めていた。ソチ・オリンピック恐るべし。


夜間傾聴>ひとり

(校正3回目済み)


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