2018/03/22 記
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母に軽食を食べさせて、今日、橋本からの帰り、海老名で買い込んだ惣菜を冷蔵庫に詰め込んで、「もったいないジャパン」の会合に向かった。魚清ビルは、ともいきや誕生時代からお邪魔してきた懐かしい場所。オーナーも参加しているかなと半分期待の参加だった。(これは実現しなかったが。)
「もったいないジャパン」は、古書再利用仲介活動の「セカンド・ブック・アーチ」の発展形なのだと知った。以前、古書の利用法提案として、古い昭和の写真集を回想法に使うという提案をして、特養とつないだことがあったが、現場は人手不足で職員がじっくり取り組むゆとりがなく、ボランティアがやってくれるなら歓迎するという結末になったことがあり、欲しいところに書をつなぐと言ったとき、実際は活動を持続仲介する活動が生まれてこないと、欲しいとする側の継続利用にはなかなか結び付かないと思っていた。それはグッズ提供側の問題ではなく、受け取り側の問題なのかもしれない。しかし、その隙間が気になって仕方なかった。それが様々な物資の仲介となったとき、受け取り待ちだけではなく、有効利用先の打診の形で積極開拓するとき、それは種を蒔く活動に似ているが、隙間問題が増幅していくのではないかと気になった。
私は過剰生産物の有効利用という切り口ではなく、フードバンクに近い「生活困窮」または「子どもの貧困」と「子ども食堂」のような必要の原型が困難解結の道としてつなげたいという気持ちが主なので、今回の「もったいないジャパン」の設立経過を聴いて、支援提供のニーズではなく、受け取る側のニーズも予想以上に広がっていることを知った。
面白かったのは、**氏の語った「災害被災地の男性被災者が、孤立する傾向があるが、それを中古陶器フリマのような形でイベントを企画すると、参加するようになる」という語りだった。
彼らには、つながりのパワーがある。その可能性が、**氏の目配りの広さと社会的弱者を無視しないところに評価したいところがあるが、いわゆる困難を抱える者たちの再起につながる社会参加活動、就労支援活動と、どう結びつけられるか、接面が繰り返しクリアにならんかと、もやもやするところで、私は**氏にとっては貧乏神的なすりよりになりそうなので、見守りたいとしておく。行動パワーを萎えさせかねないからだ。
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熊本からの引きこもり家族会の話では、障碍者のセンターを運営している活動との接点はあるのかが少々きになっている。同時に、やはり地元活動の芽が事前にあり、発災を通して、活動がつながる契機を得たような説明(勘違いか?)があり、その諸活動のネットワーキングが、地域の活躍の場の提供や、企業就労以外の道を同時に生み出しているように思えた。ヨーロッパの「ソーシャル・ファーム」は、政策的にトップダウンの活動傾向が強いが、同様にボトムアップ型の活動が定着していけるのか、困難を抱える彼らの自己有用感を育んでいるのか気になっている。
ともあれ、この団体との気まぐれメール交換を実現したいとかんがえている。
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「他者の世話にならずとも、大丈夫だ」という気持ちを母は持っている。突然のめまいと、慢性食欲不振があって、認知症の徘徊者がいる家族からは「うらやましい」といわれたこともあるが、場面関係なく突然襲う「めまい」の怖さは、自己主張のような冒険単独行動とともに、見守っていかなくてはならない状態ではあるのだ。
「もったいないジャパン」に行っていた数時間の間に、母はひとりで風呂に入り、冷蔵庫に納めた惣菜で、ひとり食事を済ませていた。帰って来てからと止めていても、これがある。安心できないのだ。
約束通り、明日墓参してきてくれるねと母に念を押されて、霊園に行ってくることになった。前日のみぞれから、母は神経痛をおこしており、墓参は私一人でということになった。しかし、神経痛があるなら「ひとり風呂」の無茶は、やめて欲しいと告げたが馬耳東風なのである。悩ましい。
夜間傾聴:ひとり
(校正2回目済み)
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母に軽食を食べさせて、今日、橋本からの帰り、海老名で買い込んだ惣菜を冷蔵庫に詰め込んで、「もったいないジャパン」の会合に向かった。魚清ビルは、ともいきや誕生時代からお邪魔してきた懐かしい場所。オーナーも参加しているかなと半分期待の参加だった。(これは実現しなかったが。)
「もったいないジャパン」は、古書再利用仲介活動の「セカンド・ブック・アーチ」の発展形なのだと知った。以前、古書の利用法提案として、古い昭和の写真集を回想法に使うという提案をして、特養とつないだことがあったが、現場は人手不足で職員がじっくり取り組むゆとりがなく、ボランティアがやってくれるなら歓迎するという結末になったことがあり、欲しいところに書をつなぐと言ったとき、実際は活動を持続仲介する活動が生まれてこないと、欲しいとする側の継続利用にはなかなか結び付かないと思っていた。それはグッズ提供側の問題ではなく、受け取り側の問題なのかもしれない。しかし、その隙間が気になって仕方なかった。それが様々な物資の仲介となったとき、受け取り待ちだけではなく、有効利用先の打診の形で積極開拓するとき、それは種を蒔く活動に似ているが、隙間問題が増幅していくのではないかと気になった。
私は過剰生産物の有効利用という切り口ではなく、フードバンクに近い「生活困窮」または「子どもの貧困」と「子ども食堂」のような必要の原型が困難解結の道としてつなげたいという気持ちが主なので、今回の「もったいないジャパン」の設立経過を聴いて、支援提供のニーズではなく、受け取る側のニーズも予想以上に広がっていることを知った。
面白かったのは、**氏の語った「災害被災地の男性被災者が、孤立する傾向があるが、それを中古陶器フリマのような形でイベントを企画すると、参加するようになる」という語りだった。
彼らには、つながりのパワーがある。その可能性が、**氏の目配りの広さと社会的弱者を無視しないところに評価したいところがあるが、いわゆる困難を抱える者たちの再起につながる社会参加活動、就労支援活動と、どう結びつけられるか、接面が繰り返しクリアにならんかと、もやもやするところで、私は**氏にとっては貧乏神的なすりよりになりそうなので、見守りたいとしておく。行動パワーを萎えさせかねないからだ。
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熊本からの引きこもり家族会の話では、障碍者のセンターを運営している活動との接点はあるのかが少々きになっている。同時に、やはり地元活動の芽が事前にあり、発災を通して、活動がつながる契機を得たような説明(勘違いか?)があり、その諸活動のネットワーキングが、地域の活躍の場の提供や、企業就労以外の道を同時に生み出しているように思えた。ヨーロッパの「ソーシャル・ファーム」は、政策的にトップダウンの活動傾向が強いが、同様にボトムアップ型の活動が定着していけるのか、困難を抱える彼らの自己有用感を育んでいるのか気になっている。
ともあれ、この団体との気まぐれメール交換を実現したいとかんがえている。
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「他者の世話にならずとも、大丈夫だ」という気持ちを母は持っている。突然のめまいと、慢性食欲不振があって、認知症の徘徊者がいる家族からは「うらやましい」といわれたこともあるが、場面関係なく突然襲う「めまい」の怖さは、自己主張のような冒険単独行動とともに、見守っていかなくてはならない状態ではあるのだ。
「もったいないジャパン」に行っていた数時間の間に、母はひとりで風呂に入り、冷蔵庫に納めた惣菜で、ひとり食事を済ませていた。帰って来てからと止めていても、これがある。安心できないのだ。
約束通り、明日墓参してきてくれるねと母に念を押されて、霊園に行ってくることになった。前日のみぞれから、母は神経痛をおこしており、墓参は私一人でということになった。しかし、神経痛があるなら「ひとり風呂」の無茶は、やめて欲しいと告げたが馬耳東風なのである。悩ましい。
夜間傾聴:ひとり
(校正2回目済み)