遅ればせの年賀状を先ほど書き終えた。ひとり名前が消えた。塾屋仲間で昨年来喉頭がんを患っていた。転移があって命を閉じた。娘さんがカナー型の自閉症で、娘さんとの時間を作るために小学校教員をやめて、塾屋に転身した。ところが奥さんがプルーンが万能薬と信じる新興宗教に入信したために、娘さんの教育にひどく苦労をしていた。
塾の授業の教室の隅で、お気に入りのメタルテープを巻き取る作業を、延々としている娘さんを、メガネの隙間から眺めている彼が印象に残っていた。毎年12月には彼と一杯やるのだが、私がII型糖尿病と成人病検診で発見されてから、やや疎遠にしていた。その関係か、彼ががんを発症、入院し、他界されるまで、私は彼が元気であると思い込んでいた。喪中の葉書が飛び込み、彼の逝去を知ったのだった。宗教嫌いの私を奥さんは警戒していたので、闘病中の彼にわたしを引き合わせるのを疎んじていたのだろうと推測する。娘さんは奥さんの実家のご両親が当座の引き受け先になり、塾もまた廃業するとの電話先の奥さんの話を聞いて、実は言葉の響きに封じられた彼の無念さを感じ取っていた。
私と同世代の知人・友人がぽつりぽつり去っていく。そんな年齢に差し掛かったという実感がある。立ち入ることのできない家庭の壁、親権の領域に手をこまねいているわけではないが、娘さんに誤った治療を施しかねないことに対し無力感を感じている。
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細木数子がまたろくでもないことを言っていた。「いじめは、いじめられる側にも問題がある」という主張。この手の論理は、場の文脈から切り離されて語られる。いじめられた当人が、いじめられていることを告白する状況は、当人の心をオーバーフローする限界の状態で語られることが多く、この主張は告白を受け止めることを忌避する文脈で使われるため、字義通りの解釈を論じても意味を持たないことや、言葉の影響が当事者にとって谷間に落ちるに等しいことすらあること。またいじめは力関係の圧倒的な非対称性の中に生じるために、この言葉がいじめの助長の政治的な言葉に利用される現場の影響の軽視が潜んでいる。まずは「いじめの停止」「いじめの回避」から始めるべきなのだ。そこが軽視されてはならない。さらにこの手の論議が、大人の側、社会を仕切る側からの論議であり、当事者・同世代の発言がきれいに掻き消えていることに注意を促したい。
教育の論議の穴であるのだが、大人はいつまで経っても保護者という横暴を子どもに向けている。子育てという仕事の中に、子ども当人の育ちとの交流の結果が意識されていないのはなぜだろう。これは療育の場でも共通の匂いがある。小学生はいざしらず、中高生が語る言葉を持たないのは異様ではないか。ここに場の仕切りの抑圧が働いている。その中で「いじめは、いじめられている側にも問題がある」という言葉をおいて考えてみてほしい。
百歩譲ったとして、この論理はどこかで聞いたことがあるのだ。レイプである。レイプされた側は、犯人を挑発するような服装や態度を取っているのだという論理がある。いじめが集団への組み込みと排除という文脈や、不満による理不尽な破壊と被害の文脈を背景に抱えている中で、それを抑え除外した話としても、酔客の横暴はされる側が近くにいるという非があるというに至る論はおかしい。いじめられる者がいじめる、関係の泥沼も真実だ。だがそのことがいじめることを正当化することにはかけらにもならないだろう。こういう論理が平気で横行する空気に私は違和感を感じる。暴力に鈍感になっては、ならないと思うのだ。
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年賀状を書き終えて、最後の投函を済ませた。明け方の4時にポストに投函に出た。珍しい光景に出会った。公衆電話に若者が小銭を入れて使ってるただそれだけの光景だった。携帯の普及している現在、公衆電話の数も少ないが、それを明け方、若者が携帯電話ではなく公衆電話を使っていたというつまらない話なのだが、おやっと思ってしまった。
パトカーが年末年始警戒に、ゆっくりと通り過ぎていくのを見ながら帰宅した。夕方に大晦日の買出しの山の上にのせて、赤い千両の小枝を買った。これで正月がやってくる。新年を前に玄関先に一輪、赤い実を差した。
塾の授業の教室の隅で、お気に入りのメタルテープを巻き取る作業を、延々としている娘さんを、メガネの隙間から眺めている彼が印象に残っていた。毎年12月には彼と一杯やるのだが、私がII型糖尿病と成人病検診で発見されてから、やや疎遠にしていた。その関係か、彼ががんを発症、入院し、他界されるまで、私は彼が元気であると思い込んでいた。喪中の葉書が飛び込み、彼の逝去を知ったのだった。宗教嫌いの私を奥さんは警戒していたので、闘病中の彼にわたしを引き合わせるのを疎んじていたのだろうと推測する。娘さんは奥さんの実家のご両親が当座の引き受け先になり、塾もまた廃業するとの電話先の奥さんの話を聞いて、実は言葉の響きに封じられた彼の無念さを感じ取っていた。
私と同世代の知人・友人がぽつりぽつり去っていく。そんな年齢に差し掛かったという実感がある。立ち入ることのできない家庭の壁、親権の領域に手をこまねいているわけではないが、娘さんに誤った治療を施しかねないことに対し無力感を感じている。
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細木数子がまたろくでもないことを言っていた。「いじめは、いじめられる側にも問題がある」という主張。この手の論理は、場の文脈から切り離されて語られる。いじめられた当人が、いじめられていることを告白する状況は、当人の心をオーバーフローする限界の状態で語られることが多く、この主張は告白を受け止めることを忌避する文脈で使われるため、字義通りの解釈を論じても意味を持たないことや、言葉の影響が当事者にとって谷間に落ちるに等しいことすらあること。またいじめは力関係の圧倒的な非対称性の中に生じるために、この言葉がいじめの助長の政治的な言葉に利用される現場の影響の軽視が潜んでいる。まずは「いじめの停止」「いじめの回避」から始めるべきなのだ。そこが軽視されてはならない。さらにこの手の論議が、大人の側、社会を仕切る側からの論議であり、当事者・同世代の発言がきれいに掻き消えていることに注意を促したい。
教育の論議の穴であるのだが、大人はいつまで経っても保護者という横暴を子どもに向けている。子育てという仕事の中に、子ども当人の育ちとの交流の結果が意識されていないのはなぜだろう。これは療育の場でも共通の匂いがある。小学生はいざしらず、中高生が語る言葉を持たないのは異様ではないか。ここに場の仕切りの抑圧が働いている。その中で「いじめは、いじめられている側にも問題がある」という言葉をおいて考えてみてほしい。
百歩譲ったとして、この論理はどこかで聞いたことがあるのだ。レイプである。レイプされた側は、犯人を挑発するような服装や態度を取っているのだという論理がある。いじめが集団への組み込みと排除という文脈や、不満による理不尽な破壊と被害の文脈を背景に抱えている中で、それを抑え除外した話としても、酔客の横暴はされる側が近くにいるという非があるというに至る論はおかしい。いじめられる者がいじめる、関係の泥沼も真実だ。だがそのことがいじめることを正当化することにはかけらにもならないだろう。こういう論理が平気で横行する空気に私は違和感を感じる。暴力に鈍感になっては、ならないと思うのだ。
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年賀状を書き終えて、最後の投函を済ませた。明け方の4時にポストに投函に出た。珍しい光景に出会った。公衆電話に若者が小銭を入れて使ってるただそれだけの光景だった。携帯の普及している現在、公衆電話の数も少ないが、それを明け方、若者が携帯電話ではなく公衆電話を使っていたというつまらない話なのだが、おやっと思ってしまった。
パトカーが年末年始警戒に、ゆっくりと通り過ぎていくのを見ながら帰宅した。夕方に大晦日の買出しの山の上にのせて、赤い千両の小枝を買った。これで正月がやってくる。新年を前に玄関先に一輪、赤い実を差した。