美術の眼、考古の眼

2022-02-06 00:00:21 | 美術館・博物館・工芸品
横浜市歴史博物館で開催中(~3月6日)の『美術の眼、考古の眼』に行く。サブタイトルがないので、何の展覧会なのかよくわからない。このご時世、よくわからないところに行く人がたくさんいるとは思えないのだからサブタイトルを与えればよかったのではないだろうか。例えば「縄文土器を見つめる二つのまなざし」とか。意外にいい名前だ。



要するに考古学的価値を重く見るのか、美術工芸としての価値を重く見るのかといったところだろう。実際には切り離せない。話は複雑だが美術(芸術)は人間から離れては存在できないし、考古学だってそうだ。土の中から土器が出現し、その時代にはどういう生活をしていたのだろうかと想像するのはまったく自然だ。謎だらけだしそういう好奇心的関心を持つ人も多いだろう。そもそもロクロもなければガス窯だってない。土だってどこの土がいいかとか伝えようにも文字も紙もない。



で、話を戻して、この展覧会のメインは、「現代の縄文土器作家展」であると言った方がいいだろう。松山賢さん、薬王寺太一さんの二人の縄文土器作家の作品に地元横浜出土の縄文土器を加え、背景絵画として現代作家の間島秀徳さんが加わっている。


実は今日の記事を書くにあたり、岡山県新見市に廃校を利用して縄文美術館『猪風来美術館』を開いていた猪風来さんを紹介しなければと思っていた。圧倒的な量の作品を焼きあげていた方で、私が細く長い山道を辿って伺ったときは、仕事中ということで奥様と話をさせていただいた記憶がある。

千葉県の加曾利貝塚遺跡に勤めていた時に、出土品のレプリカを作り続けているうちに、自分の作品を創りたくなったものの、野焼きができるわけではないので北海道に移住するも、そこでもダイオキシンの発生する野焼きができなくなり、岡山の山中の廃校の校庭で本格的に創作を続けているとのことだった。

ところが調べていると、一昨年、ご夫妻のご子息で、やはり縄文土器を焼いていた村上原野さん(32)がクモ膜下出血で他界されたということがわかってきた。残されたのは彼の焼き上げた数百の土器と両親の悲しみということだろう。寿命まで縄文人に倣うことはないのに。悲しすぎる。


ダイオキシン問題だが、本来、農業用の大規模な野焼きはOKなのに日本全土でせいぜい10か20カ所程度の土器の野焼きがダメと言うのも意味不明的なのだが、今展の作家のお一人は横須賀市が用意した野焼き施設で焼成したとのこと。

そういえば遥かに昔になるが、私の亡き両親も縄文焼教室に通っていて、高さ1メートルほどの傘立てのような壺を作っていた。もちろん傘立てに使っていた。今はない。