関東大震災(吉村昭著)

2016-12-06 00:00:50 | 書評
今年は吉村昭を読んでいなかったので、年末に数冊読んでいる。この『関東大震災』は、著者にとって少し変わった書き方になっているといえる。

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著者は、ある特定の人物を中心に据え(男性のことが多い)、彼をとりまく時代の流れを通して、時代を描いていることが多い。時代の中でどうにも逃げられない人物の苦悩と諦念というものをあぶり出し、それが『時代』と読ませるわけだ。

ところが、本書には、基本的に主人公がいない。さらにいうと登場人物すらいないと言ってもいい。関東大震災について書かれた公式記録や私的な日記や、生存者のことばなどを収集している。

といって、手抜きとは言えない迫力があるのは、それらの膨大な記録の中で、あえて後世に伝えられないようなタブーの部分に力筆を込めているからだろう。

そして、本書に書かれたことが、直下型地震の真実なのだろうと思うと、そら恐ろしくなる。

本書のあらすじを書くことは、本意ではないので、都心で生き残りたい人は、各自文庫本を購入する価値は十分にあると思うが、いくつかは箇条書きに並べてみたいと思う。


大震災は大正12年9月1日に起きたのだが、その8年前に群発地震があった。その時の地震学の権威は東大の大森教授。そして弟子の今村教授との間で、直下型地震の予測について争いがあった。今村教授は、前回(安政の地震)から60年経っているので、すでに危険時期に入っている(50~100年間隔)と主張したが、大森教授は根拠なしと否定。上司である大森教授の説の方が正論となった。

安政の地震及び、それに伴う火災の頃は、江戸市内には防火意識が徹底していて、それなりに給水網があったが、明治以降、すっかり忘れ去られていて、地震の怖さや避難のことなど公的機関も個人の側もまったく失念していた。江戸時代には厳しく禁止されていた火災時に荷物を大八車に乗せて逃げる行為の結果、道路に人があふれて、動けなくなった。

神奈川県では大きな列車事故が多発していて、170名を乗せた列車が根府川駅でホームごと崩れ40メートル下の海中に沈んでしまったり、トンネル内進行中にトンネルが崩れ埋没してしまった例もある。千葉の舘山では深さ2メートルの亀裂の中に測候所や旅館が吸い込まれている。

そして東京だが、初の高層建築物である浅草の凌雲閣(73メートル)が12階建ての8階で折れ、展望台の13名が落下。うち一人が途中の福助足袋の看板に引っかかり死を免れる。火事以外でもあちこちで圧死者が出ている。

そして本所被服廠跡の大惨事であるが、上空を覆いつくした熱旋風の中で生き残った人は数パーセントといわれるが、条件としては、1メートル四方に二人という過密状況の中でばたばたと人が倒れた瞬間には、他人の下敷きになって火を被らなかったことと、火がなくなった後にすばやく死体の山の中から立ち上がって、死体を踏みながら転ばないで逃げた人ということだそうだ。転ぶと上から踏まれて死ぬのだが、死体の足や手を踏むと、丸いので転んでしまうので、腹や背といった平らな部分を踏んで逃げたものだけが生き残る。

朝鮮人虐殺問題だが、当時、警察は必死に朝鮮人を守っていたのだが、横浜で何かの誤解から始まった流言が首都圏を飛び回り、警察やマスコミでさえ、情報網の断続で真実がわからない状況に追い込まれていったようだ。警察に保護していても、右翼集団が先導して警察署を焼き討ちしてまで朝鮮人を殺し、日本人や中国人まで被害は及んでいる。

また、混乱の中で社会主義者とその親族(大杉栄)を殺害した甘粕大佐に対する裁判も最初の頃は、世論が「許さない」という状況だったが、そのうちに大佐同情論もでてきて、懲役刑となり、そのうちに出獄。結局、彼は満州にわたり、終戦時に自殺する。

そして、地震は起きないと主張していた大森教授はオーストラリアの学会出席中に地震の報に接する。その前後から体力が衰えていく何らかの病状にあり、急遽帰国。本来は弾劾されるべきであったのかもしれないが、そのまま入院し、地震から二か月後に他界。