錦帯橋を往復する

2016-11-16 00:00:35 | たび
岩国市が錦帯橋をもって世界遺産に意欲を持っている。個人的には宮島のような古来からの霊的シンボルではないので、どうかなと思っているのだが、物体としての錦帯橋は人工物としてはすばらしい名勝である。

もちろん1673年に完成したのは観光用ではなく実用品としてだったのだが、紐を解くと関ケ原の戦いになるので、それは別稿として、橋に関係する部分だけにすると、江戸時代の最初に岩国の城主となったのが吉川家である。色々なごたごたの結果なので、吉川家では再び国内大戦争が始まるかもしれないという予感に基づき難攻不落の山城をこの橋の先にある山頂近くに建てる。橋の写真の上の方に、再建天守閣が見える。

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そこは山の上なので、武士の住む屋敷町は山の下になる。しかし、面積がとれないので、全面を流れる錦川の右岸と左岸に分かれて武家屋敷と町人の住む城下町がわかれ、さらに外側に農民が住むことになる。

必然的に、川を渡るたびに大不便状態になる。川幅は200メートル程度で流れも遅くない。そこで、橋を作ろうということになったのだが、技術的な困難があった。橋桁の数を減らすと強度に問題が出るからだ。そこで参考にしたのが中国の西湖にある五連のアーチ橋だ。

そして完成。長く補修を続けていたわけだが、城下の人々に対し、武家、町民、農民と問わず橋修理税を調達していたそうだ。しかし通行が許されたのは武士と出入り商人だけだった。(都民税でできたスポーツ設備に入れるのはアスリートだけ、という構造に近い)

そして、明治、大正、昭和と時は流れ、敗戦で無一文になった国家にダメ押しの台風が来た。1950年の台風で橋の大部分が流出してしまう。一説では、米軍基地となった岩国基地の舗装工事のため、橋のそばの砂を掘り出したからともいわれる。そして、復旧されたのが1953年。次の危機は人災だ。1998年に3人乗りの軽自動車が橋を渡ろうと突入。故意かうっかりかは不明だが破損した。2001年から3年で補修が行われたが、2005年の大雨で、橋桁が破損してしまう。

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ということで、補修計画を賄うためか、橋を渡るのは有料である。この橋を渡ると多くの人はロープウェーに乗り、岩国城まで行き、帰ってくる。この橋の往復とロープウェーの往復と、岩国城入場の5枚のチケットがセットで販売されている。うっかり行きの橋の上でチケットを風で吹き飛ばされると戻るときは、川の中を歩かなければならない。山の上の城でチケットを吹き飛ばされると、歩いて山を下りてこなければいけないうえ、さらに川の中を歩かなければならない。

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橋の表面構造だが、傾斜の急なところは階段になっている。つまり最初は階段を上り、次つぎに階段を下りる。これを5回繰り返すのだから、5回建てのビルの階段を歩くようなものだ。

橋の上から河原まではかなり高さがある。河原では釣りをしている老人と、絵を描いている老人が多いが、釣れてもいないし、絵も下手だ。