ジパング伝説

2016-11-01 00:00:35 | 歴史
田中貴金属からの情報誌に「金で巡る日本の歴史」という記事があり、日本史に残るべき金の話題として、3つあげられている。

新しい方からいうと、1601年の慶長小判。幕府が全国の金山を直轄地にし、金貨を通貨として管理し始める。同時にこの年から佐渡金山の開発が始まる。各藩には独自の通貨があり、この後も使われるのだが、国内の基軸通貨が金本位制になった。

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もちろん慶長小判は通貨としては現在使えない。田中金属が独自に作った金貨とならべてみたが、本物っぽく墨で文字が書かれている方が偽物だ。通貨ではないので通貨偽造にはあたらないが。これを何枚も購入してhひそかに子孫に残そうとすると相続税法に触れる。


次に、1397年に建立された金閣寺だが、無暗に足利将軍が建てたわけじゃない。それに金無垢ではなく金箔だから。1370年代に伊豆の土肥に金山が見つかる。金価格が下がっていったのかもしれない。この頃、各地で鉱山開発が進み、地方豪族が金持ちになり室町幕府の弱体化がはじまっていく。

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土肥は西伊豆にあるが、金山の面影は感じられない。西伊豆は交通手段がきわめて不便で沼津から船に乗ったり、伊豆半島の東側から天城越えするか新幹線+バスの旅。作家が小説を書くために籠るのだが、西伊豆まで逃避すると、長編小説を編集者に期待されてしまう。西側が海なので露天温泉に浸かりながら、海に沈む夕陽を鑑賞できる。(観光案内になってしまう)


そして、主題である平泉の中尊寺金色堂。1124年に奥州藤原氏の初代清衡が建てる。国宝第一号である。金は地元の砂金が原料だった。実は、金閣寺とは異なり、東北地方を平定した藤原清衡が戦乱の中で亡くなった敵味方の霊を慰めるためだった。味方しか祀らないのは靖国神社だが、東北平定といえば、先住民族との戦いでもあったわけで現代的に考えれば評価は難しい。

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そして、一方、中国大陸は、その後、蒙古軍に蹂躙される。元が勃興。戦争を続けていながら元は交易を重視していて、西欧人やイスラム圏の人は往来していた。その中の一人がマルコ・ポーロ(1254~1324)。有名な『東方見聞録』の中で、日本のことを『ジパング』と書き、『黄金の島』とする。

私は、日本との交易の通貨として金が使われていたとか、金そのものが日本から中国へ輸出されていて、そこからの推測記事ではないかと思っていたのだが、最近になり、この金色堂がモデルだったのではないかという説が強いらしい。日本のことを知るイスラム教徒から「日本には金でできた建物が多い」と聞いたのではないかということで、その代表が金色堂だったらしい。中国から2000キロ東の島にマルコ・ポーロが行っていれば(来ていれば)、そんな話が世界中に拡散することはなかったのだろうが、西洋の海洋冒険家たちの脳内に記憶されてしまった。

とはいうものの、コロンブス他、みんなインドを目指していくのだがジパングに行こうという者はいなかった。ポルトガル人が漂着したのは偶然だが、日本の近世が動き出す(黒船と同じだ)。

イスラム教徒や中国のキリスト教徒がジパングのことを誤解していたにも関わらず、占領しようと考えなかったというのも、東方見聞録に原因があるのかもしれない。

ジパング人の特徴として挙げられているのは、

1. 金の家に住む

だけではない。

2. 敵を捕まえて身代金が払われなければ、パーティを開き、殺して食ってしまう。
3. 元が軍を2回送ったが、暴風雨のせいで負けた。
とも書かれている。

負けず嫌いの蒙古人が台風のせいにするぐらい強いうえに、人食い。(何か違う島のことではないかと思うが、おおさかふけいのおまわりさんではないので、深く考えないことにする)