遅まきながら竹田城へ

2016-06-08 00:00:53 | The 城
日本のマチュピチュといわれる竹田城だが、その存在を知っていたのは、10年ほど前であったのだが、当時は残存天守閣12を巡ることに努力していて、石垣を残すのみの竹田城は大脳の記憶回路の中にとどめるだけだったが、簡単にはいけない難攻不落城と認識していた。

難攻不落といえば、小田原城を攻略するために秀吉が一夜で築いた(ようにみせかけた)石垣山城に登ったのが2007年。9年前、ということは9歳若い時。山道一時間登りは、もはや決死の覚悟なのだが、どうも調べてみると、竹田城は大観光地化していて、途中に駐車場や公営バスに乗っての中継点までできている。山登り40分ではなく平坦路20分らしい。

とはいえ、姫路から播但線の電化区間とディーゼル車区間を乗り継いで竹田駅からバスに乗るということになっている。

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で、気付いたのはJR竹田城から山の頂上を見ると、石垣が見えるではないか。駅前の観光ガイドは、私の真の年齢を見ぬいたのか、登山路に行くのを強く引き止め、バスに乗ることを勧める。ということで、満員のバスに乗ることになる。

そして、中継点から城までは平たんではなく、なだらかな坂であったが、それでもへとへとになる。日頃の運動不足のせいだ。

そして、この城がきわめて変わった城であることと、その城主だった赤松広秀のことを知った時、それが先月行った、鳥取城と関係していることで愕然とした。

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赤松広秀は関ヶ原の時、西軍に属していた。そのため西軍が負けた時に、責任を問われるべき立場にいたのだが、猿知恵とも思われる行動をとり、同じく西軍に属していた鳥取城の攻撃を始めたわけで、東軍の味方に早変わりしたのだが、その時に、鳥取市街地に火を放ったとして家康はこれを許さず、切腹させてしまったわけだ。タダ働きの上、クビというわけだ。鳥取城の惨劇の祟りなのだろうと思ってしまう。

そして、江戸時代初期に廃城となるも、その城跡は長い間眠りについていたといえるだろう。つい10年ほど前までは。

その後、大観光地になってしまったのは、ご存知のとおりだが、韓国中国のみならず、アラブ系の人たちまで、山を登ってくる。思えば、イスラム系の要塞風にも見える。

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眺望は最高だ。降りる時ぐらいは山道を使おうかと頭では考えたのだが、足は自然とバス乗り場の方に向かってしまう。

日本には、観光地予備軍としての城跡は、あと300位はあるはずなので、特にすばらしいと思う場所には、観光地になる前に行きたいとも思っている。

備中松山城は、今頃人気になったが、ずっと前から行っていて、現在の状況に少し的外れ感を持っている。