むかし下津井回船問屋と児島ジーンズの関係

2014-03-26 00:00:21 | たび
下津井(しもつい)といっても今や無名な地名で、あえて知っている人は、下津井蛸の産地ということで漁協と認識しているだろうし、実際に漁船が多いし、小型の飯蛸用の小さな蛸壺をお土産で売っている。児島のジーンズストリートに行ったついでに足を延ばす。

simotui1


しかし、有史以来、明治の初めまで、重要な商業港であったようだ。そして多くの回船問屋(船会社)が、当地で軒を連ねていた。

現在では、倉敷市がその中の一軒である高松屋(旧西荻野家)の建物を整備して「むかし下津井回船問屋」として公開している。

simotui2


そして、なぜ江戸時代に、ここが重要港になっていたか、そして児島ジーンズとの関係はという点は、かなり複雑である。パズルのような経済関係があった。

キーワードは「北前船」。長さが20メートル強しかない小型の木造船が、江戸時代の海運の中心だった。大型船だと外国に行けてしまうからだ。そのため、長距離を連続公開することが難しい。しかし、船の特徴は長距離を大量の荷物を運ぶことである。その結果、船に荷物を詰め込んで、風と潮流と人力を使いながら港から港へと渡り歩くことだった。特に瀬戸内海は潮流と干満が大きく、なかなか前に進めない。そういう関係で、天然の良港である下津井は、西の鞆の浦(坂本竜馬で有名)と東の日生(ひなせ)の中間にあって、潮待港であるとともに、この地が必要としていたある北海道産の物産を取引していた。

それは、「ニシン」。干したニシンである。北海道の小樽から積み込み、日本海を航海し、下津井で荷揚げする。実は、池田藩は、岡山市の南側に大干拓地を展開していた。要するに大名に割り当てられた領地は○○万石というようにコメの取れ高で表示していたわけで、荒地に芋を植えたり、海を埋めて土地を作る分はカウント外だったわけだ。原油生産国カルテル連合であるOPECが国別生産枠を設定しても、天然ガスや天然ナフサがカルテル協定の枠外にあるため、それらを増産したりするようなものだ。


そして、池田藩は干拓をはじめたのだが、ただ、それだけでは土地に塩を含むため、稲は育たない。そこで、綿を植えたわけだ。塩に強い農産物。そして綿の肥料としてニシンは最高であり、肥料なしに比べ、収量は5倍になったそうだ。

そして、綿は地元の特産になり、明治になり各種繊維業が発達するわけだ。その一つの流れがジーンズ生地である。

そして、北前船は、下津井で揚荷をしたあと、あいたスペースに畳とか食用油とか詰め込んで、大阪に向かったわけだ。そのため、ここが集荷場になり金融業が栄えることになる。

冬を大阪で休養したあと、今度は逆コースの航海が始まる。途中で詰みこんだ物産は、日本海側、北海道と各地にあった豪商の手に渡り1年一往復を繰り返し、富を蓄積していたようだ。

しかし明治を下ると、帆船の時代は終わりに近づくし、日露戦争の負の遺産である機雷が日本海を浮遊し始めたそうだ。結果として北前船は消えていくことになり、当港も使命を終えることとなる。

simotui3


売店で飯蛸の煮つけを買う。やはり本場の蛸である。酒を飲み過ぎてしまう。