下津井城址を攻略

2014-03-27 00:00:19 | The 城
下津井(しもつい)に行ったら、下津井城に、のぼらんとおえま~、ということでナビ頼りで山道を車で登る。ところが、山道をナビで走ると、突然、柵が目の前に現れて急ブレーキというようなことがよくある。しかし、ここでは逆で、行けないはずの柵が外されていて、車で土の道を進めそうに見える。

罠っぽいな、と直感する。路肩にクルマを止めて、あとは歩くことにする。まさか、こんな山の中で駐車違反で捕まることはないだろう。そして、柵が開いていた土の道を歩いていくと、やはりその先は細くなり、もし車で進入すると数百メートルをバックで戻らないといけない。ハンドル操作を誤れば、崖下100メートルぐらい落下だろう。ネズミ取り。

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で、歩き続けると、石垣が見えるが、これは昔のものではないだろう。何しろ、この城は元々、文禄年間(1592年~1596年)に宇喜多秀家が岡山城の支城として築城する。その後、1603年に改築されるも1639年に廃城となる。極めて短命の城だった。

で、話し出すとキリがないのだが、ちょっとおかしい第一点は、築城時期。文禄年間というのは宇喜多秀家は、ほとんどの時期、朝鮮半島で戦っていた。それも中心人物だ。秀吉にとって、もっとも頼りになる部下だった。なんで、こんな場所に小さな城を作らなければならなかったのか。

しかし、そんな秀家だが、運命は数年で大転換する。今のウクライナ情勢みたいなものだ。秀吉が亡くなり、その後、関ヶ原の戦いで西軍の中心人物として大奮戦したのだが、小早川秀秋の裏切りで敗退。落武者として敗走し、なりふり構わず逃げ回り、ついに島津藩にたどり着くが、あえなく徳川側に引き渡される。そして一命を許され、八丈島に島流し。実は、享年83歳。戦国時代の登場人物はすべて消滅。将軍も家康、秀忠、家光までもお先にどうぞということで四代家綱の時代だった。その子孫は、八丈に住まわれているそうだ。

そして、裏切った小早川秀秋が岡山城主に交代するも発狂して落命。お家断絶となる。そして池田家の時代がくる。

気になるのは、同郷の児島出身の鳥人(世界で最初に空を飛ぶ)、浮田幸吉。浮田と宇喜多は関係があるのだろうか。

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そして、山道はいつまでも続く。坂だったり階段だったり。二つ目の疑問は、この海岸の小山に築いた立地だが、あちこちの島が島影となって敵の接近を察知するのが遅れると考えられる。戦略上、あまり有利な場所じゃない。

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そして、もはや次の階段で、あきらめて撤退しようと思うとたんに頂上に着く。ずいぶん狭い面積の場所に天守址があった。瀬戸大橋をながめると眼下にある。ずいぶん高いところまできたわけだ。


帰り道を間違えて、さらに追及すべき次の課題の脇を通り過ぎる。