数寄屋橋跡

2012-07-30 00:00:07 | 歴史
数寄屋橋といえば、今やミシュラン3ツ星(「食べログ」でも最高点5ツ星中、3ツ星評価)の寿司屋『すきやばし次郎』の方が有名だが、有楽町マリオンの前の宝くじ売り場の前の交差点のあたりに「数寄屋橋」があった。

古地図を見ると極めて小さな橋で、B級観光スポットガイド「東京の歴史名所を歩く地図」によれば、慶長年間に織田有楽斉のお数寄屋敷があったことによる命名ということらしい。

先日紹介した「タクシー生誕100年」の最初のタクシー会社(タクシー自働車株式会社)がこの数寄屋橋傍にあったとされるので、痕跡を探してウロウロしてみたが、タクシーの空車はあり余っているが、手掛かりはつかめなかった。

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そして発見したのが、数寄屋橋公園内にあるシチズン時計のニセ太陽の塔。ちょっとお笑いだ。そして全く目立たない地味な碑があって、菊田一夫の手になる一文が刻まれている。

「数寄屋橋此処にありき」

つまり、今は、橋はないが、私が書いた大ヒットラジオドラマ「君の名は」の頃には橋があったということを言い訳風に説明しているわけだ。

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慶長年間に造られた木造の小さな橋は、1929年に洋風の二重アーチの美しい石造りとなっていた。そばには朝日新聞社(今のマリオン)があった。その頃には例のタクシー会社は台数を飛躍的に伸ばしていたのだが、新聞社のお抱えだったのだろうか。

そして、美しい二重橋を若い男女の半年ごとの再会の場として設定した菊田ドラマは1953年に大ヒットする。なぜか半年ごとの再会がお互いの都合で上手くいかないというジラシストーリーである。もちろんメールのなかった時代だから、会えないと半年待ちになる。というか、相手の名前を知らないのだから、メールしようにもアドレスがわからないはずだ。

その後、有楽町にはそごうデパートが1957年に出店。駅をはさんだ朝日新聞に対抗して読売グループがバックアップ。宣伝ソングとして『有楽町で逢いましょう』をフランク永井が歌うのだが、歌詞には数寄屋橋は登場しない。そして翌年の1958年に数寄屋橋は高速道路建設によって橋の運命を終える。そこに橋があったことを想像させるのは、交番の名前と前述の地味なデザインの碑だけである。

ドラマの中で半年ごとにすれ違いを続けていた男女も、もはや出会いのチャンスを失い、気落ちした男(佐田啓二)はその数年後に他界し、安心した女(岸恵子)の方は、今も健在である。