うなぎの長旅

2009-03-26 00:00:29 | あじ
idumoya先日、老舗のウナギ店に行った。昭和21年(1946年)の創業以来の旧館は、大座敷の周りにいくつかの小部屋が配置される最近では見ない造りである。もしかすると、63年前というと、いわゆる「カゲの間」と言われるような、宴会のあと、客が芸者と夜を明かす営業形態だったのかもしれない。場所も日銀や経済関係の新聞社の近くである。そういえばウナギは江戸時代には強精剤と言われていた。欧州でいうチョコレートみたいだ(バレンタインデーのプレゼントに最適な理由だ)。もっとも、残念なことに、日本では50年ほど前から「カゲ営業」は禁止されたままだ。

ウナギは注文してから焼き上がるまで、長い長い時間がかかるため、その間に割烹料理を食すことになり、結局、高いウナギ代のさらに何倍もコストがかかることになる。そして、こういう店では、かならず「うな丼」ではなく「うな重」が出る。

idumoya実は、同じようでも「うな重」と「うな丼」とは少し違う。もともと江戸時代に、こういう料理屋で食べる時には、うな重方式なのだが、これは本物の重箱である。3人分、4人分と重ねて出てくる。現代のうな重は一人分ずつ蓋がついているがこれは変である。

逆に、うな丼を頼むと、最初から蓋がなかったりするから笑止千万である。もともとうな丼の方は携帯食。歌舞伎を見ながらとか吉原への渡し船とか、要するにお弁当である。だから丼に蓋をつけたところ、飯からの湯気でウナギの身がしとって、まことにいい塩梅になる。

現代と全く逆である。とはいえ、重を買えば蓋がついてくるし、蓋つきの丼など、ほぼ日本から消滅してしまい、買うことができないのだから、もうしかたない事態かもしれない。


ところで、まるっきり違う話だが、このウナギだが、もちろん養殖だろうが、もとは日本にいる天然ウナギが、ある時、川を下り、海に入り、遠くのどこかで産卵し、そして稚魚が日本に戻ってきたところを捕獲して養殖する。網をくぐった稚魚が天然ウナギで、また、成魚になったある時に、産卵に向かう。

だから、天然ウナギを獲ってしまうと、ウナギの生態サイクルに致命的なダメージを与えるので、全面禁止にすべきだ、という意見は非常に多いのだが、そうなってない。「天然ウナギ」というコトバが高級ウナギと同義語に思っている人が多いからだ。

idumoya一方、ではウナギがどこで産卵するのかを、20年間にわたり調査して、ついに発見した学者がいる。塚本勝巳さんという東大の海洋研究所の教授である。最近、購読を始めた「ナショナル・ジオグラフィック3月号」にその苦労が書かれていた。

まず、「脱出理論」だそうだ。

多くの回遊魚はこの理論に基づいて行動するらしい。たとえば、川で生まれて海へ下ったアユは成長すると、海の塩分や水温が嫌になり、川から海に流れてくる淡水をかぎつけて、遡上するそうだ。営業マンがついパチンコ店に行くようなものだろうか。これを、きわめて巨大な規模で実行するのがウナギで、長距離を泳ぎやすいように、普通の魚よりも細長く水の抵抗がないようになっているようだ。

そして、川から海に下ったウナギを追いかけるのは困難なので、太平洋のあちこちでウナギの仔魚(レプトセファルス)を探して、より小さいものに近付いていき、最後は産卵場所を特定する、というような方法で探し回っていたそうだ。

この仔魚探しは、1967年に台湾とフィリピンの間で体長50ミリが発見される。さらに70年代に台湾沖で40~50ミリ。さらに黒潮を遡りフィリピン沖で30ミリを21匹見つけたそうだ。耳の中に耳石という魚の年齢を測定する骨があり、測定すると孵化後3か月。さらにグアム島沖で20ミリ。さらに、塚本教授は西マリアナ海域に焦点を絞り、産卵時期を夏と断定。

ところが、これが学会で発表され、まったく相手にされなかったそうである。「ウナギの産卵は冬」というのが定説だったからだ。

(学会で相手にされないというのは、学会の時の夜の宴会タイムで、変人がられて誰も飲み屋に誘ってくれないことを意味する)

idumoyaそして、塚本教授は産卵時期を7月と推定し、ウナギにとって何らかの目印である「変わった地形」「磁気の異常」「重力の異常」といった場所をさがし、100キロくらいの間に三つの海山がある場所を見つける。そこの仔魚は7ミリだったそうだ。これが10年前。さらに、その付近をくまなく調査しているうちにある場所に塩分の低い海水と高い海水の潮目があることを発見。ついに2005年6月7日、孵化後2日の5ミリ以下の仔魚を400匹も採取することができたそうだ。つまり。この潮目を超えた時に産卵するそうだ。

そして、これからが、本当の研究だそうだ。なぜ日本から2000キロも離れた海底火山の中腹まで行って、そしてその稚魚が戻ってこられるのだろうか。(本当にわかるのだろうか?)