ハチ公、その真実は?(1)

2008-12-02 00:00:15 | 歴史
犬の復讐と言って殺人を犯した人間がいる。また、東大卒無職の25歳が「教科書にはウソが書いてあった」と憤慨して、ブログに文科省高官殺害計画を書き込み、逮捕された。「教科書に書いてあったウソ」が何なのか、多少知りたい気もあるが、聞いても何の役にも立たないだろうと思う。実は、この「犬」と「教科書」に関係のある話を調べていて、どうにもよくわからないことを書いてみる。

さて、夕方、渋谷駅上空からヘリコプターで鳥瞰すると、ある場所に人間の同心円ができているのを見ることができる。



そこが、ハチ公前である。待ち合わせの名所。つい最近、岡本太郎の壁画が渋谷に設置され、「ハチ公から太郎へ」と変なキャッチフレーズが各所に見られる。確かに太郎の「明日の神話」は、屋内通路みたいな場所なので、雨でも濡れない。欠点は、渋谷の中心ではないこと。まあ、今まではハチ公ばかりだったので、分散するのはいいことだろう。

そして、この「忠犬ハチ公」の起源の秘密について調べてみると、真っ向対立する二つの説があることがわかった。なお、実在のハチ公は、昭和10年(1935年)3月8日、13歳で亡くなっている。死因にも諸説ある。

では、従来から言われているハチ公の話。(注意深くwikipediaを見ていると、しょっちゅう記載が変っているようだ。今日現在は、この従来説になっている)

まず、ハチ公の話が広がったのは昭和7年(1932年)10月に連合通信社の記者である細井吉蔵の書いた記事が全国の新聞に掲載されたことによる。連合通信は今の共同通信みたいな会社であり、彼の書いた記事は、全国に配信され、各地の新聞でとりあげられ、瞬く間に有名になる。


ハチ公は純粋な秋田犬で、東京帝大農学部の上野英三郎教授が飼っていて、毎朝毎夕、渋谷の自宅から駅まで、ハチ公が教授の送り迎えをしていた。ところが、ある時(大正14年5月21日)、上野教授は大学で講義中に脳溢血で倒れ、そのまま亡くなってしまう。

それがわからないハチ公は、毎日、来ない主人を渋谷駅に出迎えに行きつづけている。

という内容である。

ところが、この話はその後、渋谷をもっと商業的に栄えさせようという地元商店街の考えがあり、銅像を作ろうということになる。これを製作した彫刻家は安藤照。上野の西郷像も手がけた重鎮である。昭和9年4月には完成除幕式が行なわれ、12歳のハチ公も列席している。注目すべきは、リアリズムで製作されたハチ公の左耳である。右耳と異なり、いわゆる半垂れ耳になっている。

この翌年、ハチ公は13歳の一生を終えるのだが、今度は軍人が目をつける。修身の教科書に「恩を忘れるな」という題で掲載されることになる。また、歌手である並木路子は「ハチ公の歌」を歌っている。

しかし、時代は日中戦争になり、太平洋戦争になる。全国の二宮金次郎像も徴用され、溶融して武器にしていたのだから、このハチ公像もついに徴用されることになる。そして1945年8月14日、つまり終戦の1日前に、浜松にある鉄道省の工場でその姿を失うことになる。

そして、戦後。

再度、ハチ公像が完成することになる。昭和23年5月。初代ハチ公を作った安藤照の息子である安藤士(つかさ)の手で、ハチ公像は復元される。それと同様、ハチ公の故郷である秋田県大館市でも、ハチ公像が完成する。血統書まで発見されたわけだ。

ところが、ここまでの公式見解に対し、二つの巨大異論が登場する。

一人は、ことの発端の記事を書いた細井吉蔵の談。もう一人は、ハチ公の元の飼い主と名乗る人物の談である。

つづく