甲比丹(カピタン)・森瑤子絶筆

2008-09-10 00:00:38 | 書評
6ebaa1f6.jpg森瑤子さんと、かすかな縁ができて、そのあとすぐに、彼女は亡くなってしまった。1993年、享年52歳。縁があった1冊以外を読むのはちょっと辛いものがあるのだが、数年に一冊という感じで、読んでいたのだが、あえて遠ざけていた「甲比丹・カピタン」を手にする。

幕末を描いた彼女の初めての歴史小説。長崎出島を舞台として、薩摩藩と幕府によるオランダ貿易の交易権をめぐる抗争が描かれているのだが、実は、未完である。第10章まで書かれている。彼女の創作ノートによれば、全15章の予定だったらしいが、第9章まで書かれた段階で、彼女の筆が止まる。

この小説が書かれる、かなり初期の段階で、彼女は自身の癌を告知されている。おそらく、その段階で、自らに残された時間が容易ならざる短さであることも知ったのだろうか。第9章まで文庫本でも400ページである。15章まで行けば650から700ページ。おそらく、第10章は、この小説がついに、自らの計画通り完成させることができないことを覚悟し、闘病の苦闘の中、せめて、小説らしく登場人物を史実の中に開放し、ストーリーの完結は読者に任せることにしたのだろう。小説家は、自分の作品こそ、何よりも愛しているのだから。

そういう意味で、ストーリーについて、あーだこーだというのは空しいし、力尽きた小説家に対し、失礼と思う。

ただ一つ、小説の冒頭で、長崎本紙屋町の町医者の娘「せき」が、末期癌の女性に漢方薬を届ける場面が鮮やかに描かれている。西洋医学解禁の方向に小説が向かうのかと思えば、実は、そうではないのである。この場面は、ストーリーの中でやや浮いているように感じられるのである。

残された創作ノートからも、この場面の意味は解することができないので、単に私の推測の域だが、森瑤子は、小説が未完に終わった場合、残されたこの場面を、自分の闘病中の苦闘と重ねて読んで欲しかったのではないかと思うわけだ。仮に幸運にも書き上げられた場合は、別の場面と差し替えるつもりだったのではないだろうか。

鬼気迫るというのは、こんな表現。

病人には二種類しかいないと、せきは思う。治る病人と死んでいく病人と。


そして、実際のところ、この小説は、それほど未完とは感じない。その意味で、彼女が最後に登場人物を歴史の中に帰してしまった技法がぎりぎり成功したのではないだろうか。この小説に拘らず、彼女の描く人物は、常に普遍的な人間性を持っているからこそ、読者にゆだねられたのだろう。「あとは頼むね。はい、ここまで。」って。