モディリアーニ展(国立新美術館)

2008-05-11 00:00:25 | 美術館・博物館・工芸品
fd693439.jpg国立新美術館は広大だ。今回のモディリアーニ展は、かなり大量の展示になるのだが、多過ぎて、消化しきれないほどだ。150点もある。

例の、異常に顔を長く描き、時に瞳を書かない。ほぼ、全作品はモデルの人物画。風景とか静物とかは描かない。そして、絵を描いていた時期は約10年間。案外、ピカソやルノアールのように長生きしていたら、別の画風に変っていたかもしれないが、少し想像できない。

では、彼の描く、細長い顔は、どこからきたのか。

もともと、彼は「絵が好きなフランスの地方少年」だった。絵ばかり描いていたからか、普通の学校を辞めて、パリに上京して絵画のスクールへ通う。そして、同時に彫刻も始める。彫刻の中でも石彫りである。師事したのは、当時の世界の巨匠であるブランクーシである。ブランクーシと言えば、イサム・ノグチも彼の弟子だったので、ノグチとモディリアーニは兄弟弟子ということになる。

ブランクーシは、パリから視線をアフリカ大陸に向けていた。アフリカ各地の数多くの民族に伝わる原始人類的なアートを自作に取り込んでいた。ノグチの作にも多くが影響を与えている。というか、ノグチの方は最初はブランクーシ工房の助手みたいな仕事をしていたので、作風も影響されている。

fd693439.jpgしかし、彫刻家としては、ノグチは大成功したものの、モディリアーニは成功しなかった。私が思うに、幼少時、ノグチは日本で大工の見習いをしたことがあり、ノミの使い方には長けていたのだろう。さらに、ニューヨークの実業家たちの胸像を作ったりして生活していたそうなので、ある程度の蓄えを備えていたのだろう。原料の各種石材に資金を投資する余裕があったのかもしれない。一方、モディリアーニはプロとアマの境目の時にブランクーシに入門。おカネもないし、高姿勢だったのかもしれない。

そして、モディリアーニが彫刻を離れた最大の理由は、持病の結核である。16歳の頃から患っている、と言われている。石彫の時に出る石の粉が肺にいいわけない。知り合いの画商の勧めで、彫刻を引退し、絵画一筋になる。

そのため、彼の中では、生涯、彫刻が上で絵画が下という意識があったそうだ。彫刻を彫るための下絵感覚だ。初期の代表作に『カリアティッド』というシリーズがある。私の目には「しゃがみこんだウルトラマン」に見えてしまうが、女性を色々なポーズで描いているのだが、その絵をもとにして、装飾用の大理石の石柱を彫るためだったらしい。だから、乳白色に着色されている。

また、彼の作品には瞳のない作品が多いし、描いてあっても精気に欠けるような目も見られる。モディリアーニの中では、アフリカの木彫のように、魂が目から逃げないようにという思いだったらしい。

fd693439.jpg逆に、今回の展示の中で、もっとも瞳を丁寧に仕上げているのが『珊瑚の首飾りの女(マドレーヌ・ヴェルドゥ)1918年』。藍色が美しい。瞳を透き通って、さらに光点を描き入れている。


ところで、モディリアーニはいつも酔っ払って不健康そうにパリの街をさまよっていた、と同時代の人たちには思われていた。アル中。そして、倒れるように自分のアパルトマンに戻り、訪ねてくるモデルを描く。

そして、ついにメジャーデヴューする直前、35歳で結核で逝く。

fd693439.jpgしかし、天才同業者のピカソだけは、モディリアーニのアル中を「ニセ中」と見破っていたそうだ。表通りから裏通りに入ると、千鳥足から普通の歩き方に戻っていたのを見逃さなかった。

要するに結核で体が弱っているのが世間に知られると、彼の絵画に100%必要であるモデルが、感染を恐れていなくなるからだ。だから、衰弱している体のカモフラージュが必要だったのだろう、とピカソは推測していた。

ピカソ怖ろし!

しかし、代表作の一つである『女の肖像』のモデルは、画家マリー・ローランサンではないかと言われているが、彼女が結核になったということはない。

モディリアーニが亡くなった二日後、事実婚状態だったジャンヌ・エビュテルヌは胎児とともにアトリエから飛び降りて自殺してしまう。一人残された子のその後の運命はどうなったのか。知りたいのだが、簡単にはわかりそうもないので、頭の片隅においたままにしておく。

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