株式会社文藝春秋のウェブマガジンに「本の話」といふものがある。
そこに大分以前に出た『人間の生き方、ものの考え方』といふ福田恆存の講演集をまとめた本についての記事がある。その中に片山の次のやうな言葉がある。
「 私などは、福田恆存を読んで、実際に書いてあるとおりに考えているとは思わないんですね。彼の中で貫徹しているのは、結局人間は不完全で弱く、悪から離れられず、間違う存在だということです。だから、いわば“葛藤絶対主義者”で、常に正解はなくて、ああ言えばこう言うを永遠に続けていく。彼の本質は演劇人なんです。」
「実際に書いてあるとおりに考えているとは思わない」と断言できる根拠は何も示されてゐないので、まさに「思つた」だけであるが、そんな思ひだけを書かれてもと私は「思ふ」。
私は「実際に書いてあるとおり」だと考へてゐる。しかし、それがすべてではない。晩年福田は、死について自分の思考が変化する可能性があるとして、次のやうに書いてゐた。
「死とは自然に随ふといふことで、別に大したことぢゃない。死を考へて怖くなるなんて、私にはわかんない。そりゃ、いざとなれば泣き言もいふだらうし、七転八倒することもあるだらうが、生きものである以上それは当然でせう。さういふ時に感じる死は、本当の私が感じてゐるのではなく、私の病気が感じてゐるだけのこと。健全な私には死は何ともないんです。」
自分の語つたことに縛られないといふ意味での自由がそこにはある。健全であるべき私は、病気の私に引きずられてしまふかもしれないが、それは生きものである以上仕方ない。そして、ここが大事なことであるけれども、さういふ生きものである以上、病気の私がしたことについての責任は健全な私が引き受けていきますよ、といふ決意がそこにある。したがつて、「ああ言えばこう言うを永遠に続けていく」といふニュアンスから感じる主体性の溶解とは異なる。「主体の相対化=演劇人」ととらへる片山の演劇観も福田恆存の演劇観とは異なる。
劇の舞台の人物はドラマの中で変容するが、そこには絶対主体たるテーマがある。そのテーマを追ひかける人物たちは、その行為において主体となる。テーマを巡つて台詞を吐き、動きをとる。その過程で起きる「変容」は、統合失調ではなく、人格の表現である。有り体に言へば、一人二役といふことが福田恆存の味方だが、片山流に言へば、二重人格である。二人を繋げる分裂しない自己を維持し続けるところに演戯があるのであつて、その場その場で言動を変えるのは演戯ではなく、人格の分裂である。
福田恆存の理解はだからこそ難しい。