言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

中島岳志と浜崎洋介との対談「神なき世界をどう生きるか」

2023年06月28日 21時50分57秒 | 評論・評伝
 先にも紹介した通り『文學界』7月号(2023年)では福田恆存の特集をしてゐる。そこに中島・浜崎両氏の対談が載つてゐる。
 今日は久しぶりのお休みだつたので、読んでみた。これがじつに面白かつた。私の分類では、福田恆存研究者の第三世代に属する両者は、純粋なテキスト分析に基礎を置いてゐる。それだけにテキストの解釈は厳密である。したがつて、参考になることが非常に多い。
 福田恆存自身は全集には収録しなかつたが、重要な作品に『否定の精神』があるが、浜崎はそこから次のやうな解釈を試みる。
「福田が摑み取った結論が、『反省』によって自己を意味づけることはできないということでした。自己を反省していった先で、その自己を支えるものまでを反省してしまえば、自己は全体性の外へと出てしまい、その存在を支えるものは消えてしまう。結局、反省は自己喪失を招くだけで、意識は自己を捉えることはできないのです。」

 学校では、リフレクションの重要性を指摘することが多い。メタ認知といふ言葉と共に最近の学習理論のキーワードともなつてゐる。自己を一つ上の立場から振り返る、といふのがその骨子である。
 確かに、自分を反省できなければ向上はない。それ自体は否定すべきことではない。しかし、どうにも腑に落ちないところがあつた。それは何かと言へば、振り返ることと向上との間には何か溝があるのではないかといふ疑問である。振り返りの運動と向上との運動とがかみ合ふには、間にクラッチのやうなものがあり、それが接続できる人とできない人とがゐるといふイメージである。
 それが「全体性」であつた。

 対談の後の方で、浜崎はかう語る。
「じゃあ、『全体性』とは何かということになると思うんですが、それは、決して大袈裟な話ではありません。例えば福田は『道具』との付き合いを語ります。私一人では文字を書くことはできませんが、ペンだけでも文字は書けない。私とペンが組み合って、初めて文字を書くという有機的で全体的な行為が成り立つ。しかも、その行為の巧拙、つまり、その自由さと不自由さの度合いにおいて、私と対象との関係が示されるなら、『全体のなかにあって、適切な位置を占める能力』とは、すなわち道具と適切に馴染んでいく力、目の前のモノと調和していく能力だと言い換えることもできるでしょう。」

 全体性を説明するのに全体的な行為で説明してしまふことには、不満もあるが、それでもイメージは伝はらう。私にペンを足したものが全体ではない。浜崎の言葉にはないが、敷衍すれば紙も必要であるし、何を書くかといふ精神も必要であるといふことである。そしてその精神は、単独で存在してゐるのではなく、私といふ身体がペンと紙との抵抗に合ひながら字を書いていくなかで明瞭になつていくといふことである。この時に表出してくるものが全体である。

 学習において言へば、反省といふ行為は問題を読み直し、解き直す過程のなかで、紙やペンの抵抗に合ひながら、時には眠気や疲れといふ身体自身からの抵抗を受けながら、それでも進めていかうといふ所に表出してくるものである。したがつて、行動なき振り返りは向上をもたらさないのである。自己喪失とはさういふ意味であらう。

 福田恆存の人間観から学習についての考へ方を導くとは牽強付会に過ぎるだらうが、この対談はさういふ知的刺戟をもたらしてくれる素晴らしいものであつた。


 
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