言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

動機が純粋であれば殺人が許される国 五・一五事件と七・八事件(山上容疑者)

2022年08月15日 09時25分31秒 | 評論・評伝

 山本七平は、かつてかういふことを話してゐた。

「白昼、時の総理大臣を射殺するというのは大変な事件だったわけですが、簡単にいうと、犬養さんのほうが不純だとされたわけです。純粋な将校と不純な大臣では、不純なほうが悪い。弁護人はそこをわきまえて集中的に演説をぶつ。すると、たちまち法も何もなくなってしまう。」

「要するに弁護の方法はひとつしかない、動機が純粋であった、だから褌(ふんどし)まで替えていったと押してゆけばよいのだという、そうすれば世論が味方をしてくれる。事実、助命嘆願書の集まり方はものすごかったもの。」

 小室直樹の「地震ナマズ説」も引用してゐるが、「地震が起きるのはナマズが暴れるから」と考へるのが日本人で、諸悪の根源さへ殺せばすべてが解決すると考へる発想がある。自分も含めた社会のなかに悪があると考へるのではなく、自分は純粋で自分以外の誰かが悪人で、その悪人さへゐなくなればよくなると考へる。ずゐぶんお目出たい発想である。

 そして、この発想は今日も変はらない。

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白石一文『すぐそばの彼方』

2022年08月14日 08時18分34秒 | 本と雑誌

 

 タイトルの両義性が面白い。その人は「すぐそば」に存在してゐるのに、はるか「彼方」にゐるやうに感じる。それは逆にはるか「彼方」にゐるやうに思つてゐたのに、実はすぐ「そば」に存在してゐたといふことにも通じてゐるのかもしれない。

 この小説の主人公は、まさに周囲にさう感じて生きてきた存在であつた。しかし、果たして周囲の人からはどう見られてゐたのだらうか。いまこの文章を書きながらそんなことを感じてゐる。主人公は、次期総理大臣を目指す政界の大物の次男として生まれ、経済的には何不自由なく暮らしてゐた。その立場でしか分からない苦労はあるのだらうが、お坊つちやま君のやうにも感じてしまふ。主人公視点で書かれてゐる小説だから、すぐ「そば」にゐながら「彼方」にゐるやうに感じる周囲の人の印象は、主人公から見た存在感である。しかし、俯瞰(周囲の人からの視点)的に見れば、いつも現実から逃げてばかりゐるわがままな人といふやうに見られてゐたのではないか。「すぐそばの彼方とは、あなたのことよ」と周囲の女性たちから言はれてゐるやうにさへ感じた。主人公視線で描きながら、読者にはむしろ逆に周囲の人から見た主人公の姿を印象的に記憶させるといふこの作家の描き方は、それが意図的なのか無自覚なのかは分からないが見事である。

「薫(註 事件を起こして苦しんでゐた時代の主人公を支へてゐた女性)はあんなにもすぐそばにいてくれたのに、自分の心はこんなにも彼方に離れてしまっている。すぐそばにある最も大切なものほどいつも遠い彼方にあるのかもしれず、遠い彼方にある最も大切なものほど本当はすぐそばにあるのかもしれない」

 小説の最後のところで主人公が「とりとめなく考えた」ことである。ここだけ読んでも、「いい気なものだな」と思へて来ないだらうか。少なくとも私にはさう読めた。恵まれた人間の成長は、これほどに難しいのかと思つたのである。

 

 ところで、主人公は政治家の息子なので、政治の話題が多い。経済の話が多い白石氏の小説としては珍しいのかもしれない(今まで読んだなかでは初めて)。政治についての作家の考へが興味深かつた。

「理想世界はこの世では決して実現し得ないと確信しておる。であるならば、政治家の唯一の役割は、自分の生まれ育った国家国土国民をその国家国土国民らしく保つことなのだ。日本は日本らしく生きねばならぬ。日本人は日本人らしく生きねばならない。また、そうする以外にこの国もこの国の民も生き延びていく道はないのだ。」

 多様性礼賛の時代にあつて、かういふことが小説にまともに書かれてゐることがとても気持ち良い。これが主人公の父親である龍三の言葉である。それに対して、主人公龍彦はかういふ考への持主である。

「いつの時代にも国民が政治に批判的な無関心を示すのは、政治家という職業自体への侮蔑があるからだと龍彦(註 主人公)は思っている。政治などに首を突っ込もうと考える人間そのものが多くの人々は嫌いなのだ。それはさながら宗教者に対して大多数の人間が持つ違和感と似ている。龍三(註 主人公の父親)は人間の合成こそが政治であり、そこにのみ人の世の奇跡があるとさきほど語っていたが、しかし、人間は公共という名の下、あるいは真理という概念の下に個々人ではなく集合として取り扱われることが根本的に不愉快なのだ。」

 2022年の現状を思へば、やはり龍彦の言に国民感情は近いのであらう。「日本人らしく」、「公共」を意識して生きる、「真理」を求めて生きることは忌避されてゐる。まさにそこには「どこの国民でもない、私を意識し、無節操に生きる」人だけがゐるのであり、隣にゐる人もまた「すぐそばの彼方」にしか感じられないといふことである。

 最後に、この小説の書き方について。ある人物についてほとんど説明なくその人が現れる。そして、その人物と主人公との関係が次に書かれていくといふスタイルである。この作家の描き方であるのかもしれないが、最初は戸惑ひがあつた。言つてよければ読みにくかつた。が、しだいにぐんぐん話に引き込まれていき、大きな世界に連れて行つてくれた。

 やはり白石一文はいいと思つた。

 

 

 

 

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『破戒』を観て―― 誠実な人

2022年08月11日 10時07分35秒 | 映画

 

 独立系の映画は、田舎にゐるとなかなか観ることができない。この映画の存在すらじつは知らなかつた。先日会つた友人から、この映画のことを聞き、是非とも観たいと思つて早速出かけた。

 1906年に自費出版された島崎藤村の小説『破戒』が原作である。

 当時の世風に差別意識が厳然としてあつたことは事実である。そして、それは形を変へて現在もあり続けてゐる。しかし、この映画を観てゐて、差別といふ問題を過去のものとして描いてはゐないかといふ疑問がまづ浮かんできた。

 それは映像が綺麗すぎて、100年以上前の日本があれほど美しかつただらうかといふ違和感によるものでもあつた。着るものや姿の端正な風が、美しすぎるのである。きれいに整理され、問題の所在は明らかであり、いい人悪い人が腑分けされ、葛藤そのものも作られてゐる感じがしたのである。その意味では、市川崑監督の『破戒』の映像や音楽、そして人の姿の暗くて崩れてゐる(猥雑で未分化な)感じが時代を描くにはふさはしいのではないかと思はれた。

 しかし、今映画を撮るなら美しくなければならないと思ひ直した。現代の差別は、この映像のクオリティで厳然としてあるのである。当時のやうな「汚さ」で描けば却つて「過去のもの」として描いてしまふことになると感じたからである。「戒」そのものは、今の時代にあつて変化して来てゐるだらう。部落出身であると名乗ることの葛藤は今も消えてはゐないだらうが、そのことの意味さへ知らない地域や世代の方が多いのが現状でもある。それを踏まへれば、美しく描くことで、「戒」の多様性を示すことが可能となつた。

 藤村は、かう書いてゐる。

「すべてのものは過ぎ去りつつある。その中にあつて多少なりとも『まこと』を残すものこそ、真に過ぎ去るものと言ふべきである。」

「誠実」と題された文であるが、破戒の「戒」自体は時代や人によつて異なる。そして、その個人においても時期によつては「戒」は異なるかもしれない。しかし、その「戒」を守り抜くことにおいて「まこと」を残していけば、その破戒を通じて成長はあるのかもしれないのである。誠実とはさういふことだと藤村は考へてゐるやうだ。

 藤村の「誠実」について十川信介は、「彼は『絶対』の探究者ではなく、というより、すべての価値が相対的で過ぎ去ってしまうことを知っている。だから彼にとっては、ある価値自体よりもそれに賭けた誠実さが大切なのであり、その『誠実』さを発揮して人の記憶にとどまることが、『真に過ぎ去る』ことなのである」と書いてゐる。

 その意味で、この小説(映画)の主人公「瀬川丑松」は誠実な人なのである。

 

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岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』を読む

2022年08月09日 15時16分21秒 | 本と雑誌

 

 

 出版は2006年だから、「教育論議」を語るには古い本である。話題の中にも、詰め込み教育とゆとり教育のことが出て来ることもある。しかし、そこで語られる問題点は、今も十二分に通用する事柄である。

 それだけ「教育論議」が正常化してゐないといふことでもあるが、じつはそれは「教育論議」に限らないといふことなのである。同質性社会である日本では、例へば「道義的責任を取る」といふ言葉一つ取つてみても、それを盾に攻め込む人の「道義」や「責任」と、それに答へる人のそれらとは共通するものがない以上、「道義的責任を取りました」と言はれればそれ以上は議論ができないといふことである。アカウンタビリティといふ言葉も俎上にのぼるが、それを「説明責任」と訳してゐるかぎりは、「説明」すれば「責任」を果たしたといふことになる。

 これらの何が問題か。同質性社会に永らく生きてきた私たちには「道義」や「責任」や「説明」について、当事者どころかすべての人に対して負ふべき義務となつてゐる。しかし、多様で多層な近代社会においては、それらは誰かと誰かとの間において果たされるべき責任や義務なのである。

 例へば、今ネットで見つけた次の文をご覧いただきたい。

 It is difficult indeed to document accountability for one's practice without an explanatory framework within which to evaluate practice.

 実践を評価するための説明的な枠組みがなければ、個人の実践に対する説明責任を文書化することは実際に困難です。

 

 これは極めて明確だが、個人の実践について説明の任を負ふべき対象は、その評価者に対してである。その関係において生じる説明の責任と、その関係を維持してゐることこそがアカウンタビリティなのである。したがつて、その関係が維持できてゐなければ、アカウンタビリティは果たされてゐないといふことになる。

 道義も同じで、追及する側が求める道義と、追及される側の道義とが、事前に話し合はれ、確認し、共にそれを道義としてゐないのであれば、そこには「道義的責任」は存在してゐない。追及されるべきは契約内容であり、そこに明らかな法律違反やルール―違反がなければ、道義的責任といふ同質性社会の魔法の言葉を使つて、相手を恣意的に責め込むことはできない。欧米の社会が契約社会であるとは、近代社会とは多様性の社会であるといふ理解が、私の言葉で言へば断念があるといふことである。

 かうしたことが、現状認識、原因の解明、目的設定、手段開発、あらゆることで起きてゐると言ふのだ。大変耳が痛くなる言葉の連続である。しかし、教育が何のためにあるのかも明確にせずに、教育論議がなされることはやはり不幸であることは間違ひない。

 なすべきことは多い。しかし、大事なヒントをもらつたことは事実である。

 

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白石一文『彼が通る不思議なコースを私も』

2022年08月07日 11時09分47秒 | 本と雑誌

 

 

 先日読んだ『翼』と同様、主人公は女性である。魅力的な「彼」との出会ひから、十年ほどの間の出来事(と思ひきや最後にさうでないことが明らかになる)。

 教員である「彼」の言葉には、異論もないわけではない。が、なるほどと思はせる言葉が多くあつた。

「医学の力が恒常性と自然治癒力に依拠しているのと同じように、教育の力は、人間そのものの変化の力、成長の力に大きく依存している。だからこそ、教育にはうわべだけでなく、人間を根底から変えていく力がある。」

「だからこそ」の後には、果たしてさうなのかといふ疑問がある。本当に教育にさういふ力があるのであれば、現代の日本の状況からは日本の教育が絶望的であることだけが明らかになつてしまふ。個人主義、民主主義、平和どれ一つとつても「根底から」考へることをしない「うわべだけ」の理解に留まつてゐる。

 しかし、「だからこそ」の前の「教育の力は、人間そのものの変化の力、成長の力に大きく依存している」は、その通りだらうと思ふ。教育を過信するな、そして、教育にできなくとも人は育つ、私はさう理解した。

 さうでなければ、絶望しかないではないか。

 私は、この言葉を激励の言葉と受け止めた。

 

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