言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

狂乱メディアの思ふツボーーフィルターバブル

2022年08月21日 09時26分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 テレビやネットニュースは、定期的にあるテーマを流し続けてゐる。

 コロナ禍、ウクライナ戦争、統一教会、どれもこれも同じことばかりで、一向に真実に迫つてゐるやうには思へない。ウクライナ戦争だけは、専門家が分からないことは分からないと言つてくれるが、それ以外の場合には、「専門家」が真実めかして語つてゐる。その論法は「一事が万事」である。自分の診た患者や相談に来た被害者が言つてゐることが事の全てであるやうに語る。そして、次の段階では自分の直感に合致する内容だけを集めるから、その「万事」が真実となつていくのである。

   一事  →    万事   →  真実

 コロナの感染流行がが第七次だといふ。もはやインフルエンザと同じではないか? といふことで、諸外国は対応が変更してゐるが、私たちの国の施策は変はらない。といふより変へられない。

  フィルターバブルといふ言葉がある。メディアリテラシーを身につける際のキーワードである。自分に入つてくる情報には既にフィルターがかかつてゐるのではないか。そのフィルターにかけられた「居心地の良い」情報の中(バブル)にゐるのではないか。さう疑つてみよといふ戒めである。

 特に今やマスコミも大衆もネットから情報を得ることが多いから、この戒めが重要になつて来る。なぜなら、検索エンジンのA Iによつて、自分に都合の良い情報が寄つて来るやうになつてゐるからである。

 フィルターバブルを疑へ。

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