言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『弱いつながり』を読む。

2017年03月09日 22時30分35秒 | 日記

 東浩紀氏の本を久しぶりに読んだ。頭が本当にいい印象で、デリダだとかラカンだとか、ハイデガーだとかグラノヴェターだとか、私には到底読みこなせない思想家の文章を自在に読み込んで、現実社会に物申す姿は現代の批評家として十分な存在感を持つてゐる。

 似たやうな存在としては、金沢大学の教授である仲正昌樹氏がゐるが、東氏はより左翼的で仲正氏はより右翼的である。両者ともリベラルだが、歴史に対する考へがより自由であるのが東氏で、背負ふべきものとしてとらへてゐるのが仲正氏である。

 さて今回の『弱いつながり』は、「強い絆」が東日本大震災の後に言はれたことへの違和感であるかもしれない。平易な文章で書かれてをり、哲学的なタイトルでもないが、その内容はかなり大胆である。

 「観光」といふ言葉が、近年の東氏のキーワードであるが、福島原発を観光地化し人々が絶えず訪れることのできる場所とすることが大切だと訴へる。「なんと不謹慎な」と思はれかねなかつた時期にそのことを発してゐたのは、思想家としての度胸であらう。私は、単に設計ミスでしかない福島原発を、アウシュビッツのやうな悲劇の遺産と同列に語ることを稚拙な思考と思ふが、現代の思想界でさういふことを言ふ人はゐない。なぜだらうか。それがいぶかしい。

 ネットとは検索の妙である。どういふワードで検索するかによつて目の前に導かれる情報の質が変化する。そのために日本を離れ世界を旅せよと言ふ。面白いと思ふ。しかし、そこで取り上げられるのが、タイへの入国事情であつてみれば、なんだか興醒めである。場所を変へれば思考に飛躍が起き、検索するワードが変はるのは事実であらうが、そのために旅に出よといふのは、主客が逆であらう。

 思考することへの刺戟は場所の変化もあるが、それだけではない。時間の変化も人間関係の変化も自分自身の身体の変化も大きい。あるいは書物との出会ひもある。「弱いつながり」とはさういふ多層的な位相への私自身の関はり方のことを指すのではないのか。その意味でなら私はとてもいい評言であると思ふ。

 しかし、旅に出ること。観光に出ることにやや重きを置きすぎて「弱いつながり」を言ふのであれば、観念的に過ぎる。

 さうなのだ。東氏は頭がいいが、その頭の良さゆゑにかへつて現実にヴェールがかかつてしまつてゐるといふ感じがある。その点仲正氏は、なんだが人間関係が苦手さうだし、頭隠して尻隠さずのやうなところがあつて、自身で思想の限界を熟知してゐるやうな気配がある。だから、文章を楽しめる。しかし、東氏の文章には本当にさうなのかなといふ疑問を絶えず感じながら読むことが多い。

 もちろんそれは相性の問題かもしれない。しかし、今のところ私の印象は本作を読んでも変はつてゐない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする