言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

小野紀明『二十世紀の政治思想』

2015年06月15日 10時58分43秒 | 日記
 政治学の教科書であるらしいが、もつぱら「本当にあるもの」と「そう見えるところのもの」とのついて述べてゐる。ソクラテスから、カント、ニーチェを経て、ハイデガー、ポストモダニズムと筆が及ぶのは、さながら哲学史であり、かういふ政治学といふものがあるのかと驚かされた。

 京都大学の法学部には教へ子も何人かゐるから、感想を聞いてみれば良かつたと後悔してゐる。といふのは、このほど小野先生は退官をされたからである。無味乾燥な法律論にはまつたく関心がないが、この法学博士の講義は面白さうだ。

 前回、このブログで「近代的自我」について記したが、それに引き寄せて、小野先生の文章を引いてみる。

「ポストモダニズムの最大の問題は、それが一切の根拠を、したがって個人が根を下ろすべき土壌を奪ってしまうことにこそある、と私は考える。そこに広がる砂漠を、人間は果たしてよく生き抜くことができるであろうか、人間には、ツァラトゥストラが求める『鷲のつばさと蛇のかしこさを備えた勇気』をもつことが可能であろうか。巷間に瀰漫しているポスト・モダーン的な風潮とは逆に、真のポストモダニズムはきわめて苛酷な生き方をわれわれに要求する。ポストモダニズムを生み出した生感情は、意味を喪失したためにすべてが流動化し、すべてが深淵へと呑みこまれてしまったこの世界への幻滅と、にもかかわらずそこに生きる苦しみに耐えようとする決意である。」

 かういふ告白が、果たして明治以前に書かれることがあるだらうか。この「苦しみ」が「女に惚れて苦しむこと」と同じであるとはとても思へない。
 小野は、この後三島由紀夫の『鏡子の家』を引用するが、そのニヒリズムがまた私には胸痛く感じられた。ニヒリズムに耐へられるほど強くない人間が、それでも生きていくためには、せめて血をながさなければならない。しかも「あくび」をしながらである。ニヒリズムに十分に陥つてゐながら、その自分を信じることができない、さういふ生き方を迫られるのである。

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