言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

丸谷才一の感覺とは違ふな――當り前だけど

2011年02月13日 10時57分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

   丸谷才一の長篇小説は少ない。十年に一度長篇を書くといふのがこの人の流儀で、これまでに六作品がある。丸谷自身の言葉を借りれば「まことに數すくなく寂しい限りだが、才乏しく、これしかできなかつた」と言はれるが、寂しさは何も數だけではない。内容も結構寂しいのではないか。特に、『裏聲で歌へ君が代』や『女ざかり』はひどかつた。文章は讀み易いが、タイトルからしてふざけてゐる。「在來の近代日本文學にはない色調と構造を備へてゐるはずだ」といふ自己評價はちと高過ぎる。『たつた一人の叛亂』や『輝く日の宮』は面白かつたが、乾いた文章と取り上げる主題の面白さは感じたが、それでも「在來の~」といふのはいかがなものだらう。文壇の大御所だから、今はあまりおおつぴらには言はれないが、亡くなれば分からない。さういへば、富岡幸一郎が『女ざかり』をくさしたときに編輯者から改稿を求められ、ほめごろしにしたといふエピソードもあつた。

   閑話休題。近作エッセイの『星のあひびき』を讀んでゐる。面白いものもつまらないものもあるが、氣になるのは、氏が求める文章の質である。飜譯された文章を巡つて私とはまつたく違ふ感覺なのである。作品は、『長いお別れ』(レイモンド・チャンドラー)である。引かれた文章を私も引く。どちらが良いか御考へになつてみてください。譯者は、今囘は伏せておきます(分る人には分るでせう。作品の英譯を考へればすぐに分つてしまふ)。丸谷は後者を、私は前者を評價します。

――

   私たちはお別れの挨拶をかわした。車が角をまがるのを見送ってから、階段をのぼって、すぐ寝室へ行き、ベッドをつくりなおした。枕の上にまっくろな長い髪が一本残っていた。腹の底に鉛のかたまりをのみこんだような気持だった。

 こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。

 さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。 

       ★       ★     ★

 さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった。

 フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもうまくつぼにはまる。

 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。

                                    ――

「つぼにはまる」なんて言ふ言葉遣ひがふさはしいとはまつたく思へませんな。この譯を評價するだけで私は、ふざけてゐるのか、と叫んでしまふ。「少しだけ死ぬ」などといふ言ひ方も頷けませんね。「みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった」なんて、何かくつついてゐるかのやう。文體がちぐはぐでモンタージュ寫眞のやうな感じが私にはしますが(前者の「べットをつくる」といふのも違和感がありますが、何せ半世紀前の譯出ですから)、現代小説の文體といふものはかういふものなのかしらん。さうだとすれば、丸谷が言ふ「在來の」文學の方に親近感を抱きますね。現代文學に「ロング・グットバイ」。

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