言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

EXPO'70パビリオン完成

2010年03月14日 08時05分52秒 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0877  昨日3月13日、日本万国博覧会の開催40周年を記念したイベントが行はれ、当時のパビリオンで展示の説明や案内をするコンパニオン(「ガールズ」と言つてゐたやうな)のユニフォームのファッションショーが行はれた。また、合はせて旧鉄鋼館を改装して「EXPO’70パビリオン」もオープンし、式典のあと見ることができた。

Img_0865  私は、当時6歳。静岡に住んでゐたから、万博と言つてもテレビの映像や父が買つてきてくれた絵葉書でしか知ることはできなかつた。懐かしいといふのとは違つて、何もかもが新鮮なのである。記念式典に参加してゐた人々の半数近くは、私よりも年齢が上のやうに見えたので、「懐かし組」なのだらうか。

 

Img_0872  ユニフォームの色使ひが何とも時代を感じた。色調がはつきりとしてゐて、清潔感がある。今ならかういふものにはならないだらうといふのが印象的であつた。新聞によれば、デザイナーのコシノジュンコさんのコメントに「現在のモデルのサイズに変更して仕立てた」とあつたが、当時の写真で見た雰囲気とはまつたく違つてゐた。私はこの方面はまつたく疎いので、きれいだなといふのが印象のすべてである。

 

Img_0876  式典やファッションショーは、鉄鋼館のホワイエで行はれたが、ガラス越しに太陽の塔が見える。この鉄鋼管と太陽の塔だけが当時の建物である。40年の月日のなかで、周囲の環境の変化や訪れる人の姿も興味や関心も、当時とはまつたく変はつてゐるだらう。当たり前のことである。しかし、その変化を感じさせてくれるのが、変はらずにそこに建つてゐる存在であることを思ふと、今さらながら変はらないもの、変はつてはならないものの大切さを感じた。あの頃の夢は現在の私達に共有されるものはないだらう。しかし、夢を素直に抱けたあの頃があつて今の時代があるのは紛れもない真実である。

重力ピエロ 特別版 [DVD]  

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価格:¥ 4,935(税込)
発売日:2009-10-23
 家に戻つて、借りてきたDVD「重力ピエロ」を見た。不幸な出来事によつて誕生した青年が一生感じる心の暗さを「重力」と表現してゐた。なるほど、かういふ表現が現代にはふさはしいと思はれた。決して暗いだけではなく、兄弟のつながりの強さも自然に伝はつてきて嫌な感じは残らない。切ないけれども明るさがほのかに見える。

Img_0878   太陽の塔の姿は飛び立つ鳥のやうな姿であり、まさに飛翔しようとしてゐた日本の象徴であるとすれば、現在もまだそこにあるといふことは、重力はずゐぶん強くなつたといふことの象徴にもなるのであらうか。

Img_0883   大阪に来られた際には、ぜひ万博公園に足を伸ばしてください。懐かしい人もさうでない人も。昭和45(1970)年の空気はまだ残つてゐるかもしれません。

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前の時代が終はつてから次の時代が始まるのではない

2010年03月08日 18時02分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

   時代の變化といふものは、きつとその時代を生きてゐる人にははつきりとは分からないのだらう。例へば、明治維新と言へば、近世封建制度から近代國家への變化としてまさに五百年單位で考へられる大變化であるが、その時代を生きた人びとにとつては、それほど切實なものではなかつただらう。人びとの日記などをつぶさに見たのではないけれども、少なくとも小説のなかにさういふ内容は見かけない。大正元年生れの福田恆存の實感情としては、江戸から東京への變化よりも、關東大震災の變化の方が大きいとどこかで書いてゐた。たぶん、さうなのだらうと思ふ。

   さて、そのやうに時代の變化といふものは當事者には分からないといふことを書いた矢先のことであるが、それでも今は何か大きな變化が起きてゐるやうに感じる。いやもう變化は起きたのかもしれない。思はせぶりな預言者のやうな書き方であるが、それはさうだと斷言する自信がないからで、豫感はあるといふことだ。

   じつは、先日、久しぶりにまとまつた文章を書いてゐて、さういふことを感じたのである。それは決して樂觀的なことではないけれども、悲觀すべきことでもない。大仰に言へば、日本といふ國が世界史の中で役割をいよいよ果さねばならないのではないかといふことである。もちろん、今の私たちの國の状況は、希望に溢れてはゐない。先進諸國から取り殘されていくやうな不安に襲はれてゐる。不況が續いてゐるにも關はらず、政府は無策。世界の優良企業であるトヨタが躓いてゐるのに、經濟界は全く掩護射撃をしない。若者は大志を抱かなくなつたのに、大人は何も手を打たずに現實に適應することばかりを教へてゐる。かういふ憂慮すべき時であるけれども、何かが動き出してゐるやうに感じるのである。

   それは何であるか。藝術の力か、宗教の力か。少なくとも、政治の力や、經濟の力ではないことは確かである。人を動かす力は、言葉の力か。

   キルケゴールが『現代の批判』で書いたゐたやうに、現代は水平化の時代である。惡しき平等化である。自ら行動をせずに傍觀者として世間を見るばかりであるから、社會は停滯する。それを食ひ止めるには、まづはその水平化を生き拔いて「最高の意味において青年を宗教的に啓發させることであらう」とある。水平化の時代は「滑稽なものが猛威をふるふ」時代でもあるので、青年は「美的にも知的にも陶冶」されるともある。まさに、現代は滑稽な時代である。しかし、その滑稽な時代であるからこそ眞に啓發された、眞に陶冶された青年たちが誕生するといふことでもある。そして、さういふ青年はもう既に生れてゐるだらうから、私は彼らを思つて悲觀しない。そして、彼らの舞臺はもはや狹い日本ではないだらう。馬鹿騷ぎはまだまだ續くかもしれない。しかし、さういふ時代の蔭で着々と次の時代は生れてゐる、それを感じてゐる。

   

コメント (2)
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