言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

日本の斷絶

2007年12月16日 11時40分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

  福田恆存は、歴史の斷絶といふことで言へば、戰前とよりもむしろ關東大震災の方が大きかつたとどこかで書かれてゐた。もちろん、關東の話である。しかし、近代の中心は東京である以上、そのことは大きく現在までの文化の有り樣を決定づけてゐると言へよう。

  しかし、大阪に住んで四年。どうやらこちらには今も近代以前の情緒を引摺つてゐると思へることがあるらしいといふことに氣附いた。今年、世の中を騷がせた、「僞裝」の問題、赤福、米の混合、船場吉兆、これらは關西で起きてゐるといふことを思ふと、何かあるなと思はれた。もちろん、商業主義の行過ぎ、いい加減さの象徴と惡し様にいふことも可能である。が、それらは惡しき形で出たものであるにせよ、賞味期限やら官廳の監査やらに對しての「相對化」する庶民の本音の生き方であるととらへることも可能なのではないか。

  近代が「頭」の變化、觀念先行の變化であるとしたら、關西には「腹の中」では「頭の命令」には屈伏せえへんでといふ本音が生きてゐる。ちょつと別の話になるが、テレビでも、やしきたかじんやら、上沼惠美子やら、毒舌の司會者が人氣を博してゐる。彼らが作り出す雰圍氣の中では、したがつて東京文化人もつい本音で話してしまふやうになる。だから面白い。もちろん、その面白さを生み出す「腹の文化」が僞裝問題を生み出したのだから、すべてを肯定することはできない。しかし、赤福でも米でも吉兆でも、死んだ人は誰もゐない。その程度の問題である。むしろ、頭の變化をもたらす、「觀念先行」は、肝炎の例を見ても分かるやうに命取りになる。頭の變化のはうが危險である、とも言へまいか。

  命取りと言へば、三島由紀夫は東京の作家の典型である。腹を切つて憂國の頭を貫いた。身體を精神で支配できると考へたから、ボディービルを心掛けた。小説も構造のしつかりとした重厚なものを書いた。觀念の勝利である。が、その結果身體を失つた。見事である。それは近代といふ時代が求めた生贄であり、その悲劇は私たちの心を打つ。それに對して關西の作家の代表は、谷崎潤一郎である。まさに腹の文化、もつと言へば下腹部の文化である。構造と言ふよりは文章で小説を書いた。だから、長命である。觀念など横に置かうとした。江戸の情緒を引摺つてゐる。だらだらとした文章は、江戸の情緒を越えて平安文學を感じさせさへする。

  ならば、大阪は第二の東京など目指す必要はない。戰前に「京都學派」があつたやうに、新日本學を關西發ですれば良い。腹の文化の學問である。もちろん、頭も連れていかなければならない。賞味期限をいつはるのはやはり問題だ。研究の水準は國際レベルでなくてはならない。京都にある國際日本文化研究センターもほんらいはさういふ意圖で作られてゐるはずであるが、なになら專門的にすぎ、大義を失つてゐるやうに見える。

  京都大學の佐伯先生には、以上のやうな御話をした。先生は「うん、さうだね」といふだけであつたが、もちろん、私の質問などに眞劍に答へる必要も義理もない。だが、京都大學の總合人間學部にはさういふ學問を期待してゐる、さう傳へるのも私の勝手である、さう思ひこんで勝手な話をさせてもらつた。

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