(承前)
昭和三十四年七月十一日、内閣總理大臣岸信介の名で、訓令告示された「送りがなのつけ方」が、國語問題協議會を設立するきつかけであつた。同協議会は、送りがなの問題を突破口に國語政策のあり方に異論を唱へた。福田四十八歳の決斷は、當然の行動である。そして、翌翌年三月二十二日、改革反對の、作家の舟橋聖一、東大教授の宇野精一、實踐女子大學長の山岸徳平、大正大教授の鹽田良平、東大教授の成瀬政勝の五氏が、第五期の國語審議會を脱退した。
戰後の國語改惡の經緯を簡單にまとめておかう。
昭和二十年十一月二十日 GHQのCIE(民間情報教育局)教育課員のロバート・キング・ホール少佐から文部官僚に「日本の教科書を ローマ字化」するやう勸告される。
同二一年 四月三十日 『アメリカ教育使節團報告書』で漢字制限論・假名文字論・ローマ字論を提案し、結論的には「ローマ字の採 用」が勸告される。
同二一年十一月十六日 「當用漢字表」(一八五〇字)「現代かなづかい」内閣訓令告示
同二三年 二月十六日 「當用漢字別表」(いはゆる「教育漢字」のこと)「同音訓表」内閣訓令告示
同二四年 四月二八日 「當用漢字字體表」内閣訓令告示
同二五年 四月十七日 「國語審議會令」公布(この第一條は、「所掌事務」についてであるが、そこには「國語の改善に關する事項」 「國語の教育の振興に關する事項」とならんで「ローマ字に關する事項」が記されてゐる。國語審議會が「ローマ字」を檢討するのである。そして、これに基き「ローマ字調査分科審議會」が設置された)
同二六年 五月二五日 「人名用漢字別表」内閣訓令告示
同二九年十二月 九日 「ローマ字のつづり方」内閣訓令告示
同三四年 七月十一日 「送りがなのつけ方」「送りがなのつけ方の實施について」内閣訓令告示
同五六年 十月 一日 「常用漢字表」(一九四五字)内閣訓令告示
ここでは、戰後のみのものを採上げたが、もちろん、戰前より、國語改革といふことは行はれてゐた。
なほ、昭和三十三年二月一日には、隣國中共で、「當面の文字改革と漢語表音方案に關する報告」といふものが出され、①漢字の簡略化をおこない、文盲を一掃する。②標準語を廣め、方言をなくす。③漢語の發音に、ローマ字を用ゐて、標準語の普及を助ける。の三つがその要點であつた。そして、國語改革もそれに沿つて行はれてしまつたのである。
知識人や政治家などが、中共の方針になびいてゐた當時の情勢が、國語問題にも色濃く反映してゐたと、今更ながら思ふ。將來ローマ字に變へることを目的として「言語政策を話合ふ會」が結成されたのも、同年の四月十日である。何と機を見るに敏か。國會議員六十九名、學識經驗者百四十九名が會員であつたといふ。
かうした一聯の流れに對して、福田恆存が属した國語問題協議會は批判的であるが、もちろんそれは主流の考へではない。
最近もまた、日本語の世界化、つまり「開かれた日本語」の文脈で肯定的に評價する識者が表はれた。雜誌「中央公論」の四月號(平成十二年)に掲載された、加藤秀俊氏の「日本語の敗北」である。
昭和三十四年七月十一日、内閣總理大臣岸信介の名で、訓令告示された「送りがなのつけ方」が、國語問題協議會を設立するきつかけであつた。同協議会は、送りがなの問題を突破口に國語政策のあり方に異論を唱へた。福田四十八歳の決斷は、當然の行動である。そして、翌翌年三月二十二日、改革反對の、作家の舟橋聖一、東大教授の宇野精一、實踐女子大學長の山岸徳平、大正大教授の鹽田良平、東大教授の成瀬政勝の五氏が、第五期の國語審議會を脱退した。
戰後の國語改惡の經緯を簡單にまとめておかう。
昭和二十年十一月二十日 GHQのCIE(民間情報教育局)教育課員のロバート・キング・ホール少佐から文部官僚に「日本の教科書を ローマ字化」するやう勸告される。
同二一年 四月三十日 『アメリカ教育使節團報告書』で漢字制限論・假名文字論・ローマ字論を提案し、結論的には「ローマ字の採 用」が勸告される。
同二一年十一月十六日 「當用漢字表」(一八五〇字)「現代かなづかい」内閣訓令告示
同二三年 二月十六日 「當用漢字別表」(いはゆる「教育漢字」のこと)「同音訓表」内閣訓令告示
同二四年 四月二八日 「當用漢字字體表」内閣訓令告示
同二五年 四月十七日 「國語審議會令」公布(この第一條は、「所掌事務」についてであるが、そこには「國語の改善に關する事項」 「國語の教育の振興に關する事項」とならんで「ローマ字に關する事項」が記されてゐる。國語審議會が「ローマ字」を檢討するのである。そして、これに基き「ローマ字調査分科審議會」が設置された)
同二六年 五月二五日 「人名用漢字別表」内閣訓令告示
同二九年十二月 九日 「ローマ字のつづり方」内閣訓令告示
同三四年 七月十一日 「送りがなのつけ方」「送りがなのつけ方の實施について」内閣訓令告示
同五六年 十月 一日 「常用漢字表」(一九四五字)内閣訓令告示
ここでは、戰後のみのものを採上げたが、もちろん、戰前より、國語改革といふことは行はれてゐた。
なほ、昭和三十三年二月一日には、隣國中共で、「當面の文字改革と漢語表音方案に關する報告」といふものが出され、①漢字の簡略化をおこない、文盲を一掃する。②標準語を廣め、方言をなくす。③漢語の發音に、ローマ字を用ゐて、標準語の普及を助ける。の三つがその要點であつた。そして、國語改革もそれに沿つて行はれてしまつたのである。
知識人や政治家などが、中共の方針になびいてゐた當時の情勢が、國語問題にも色濃く反映してゐたと、今更ながら思ふ。將來ローマ字に變へることを目的として「言語政策を話合ふ會」が結成されたのも、同年の四月十日である。何と機を見るに敏か。國會議員六十九名、學識經驗者百四十九名が會員であつたといふ。
かうした一聯の流れに對して、福田恆存が属した國語問題協議會は批判的であるが、もちろんそれは主流の考へではない。
最近もまた、日本語の世界化、つまり「開かれた日本語」の文脈で肯定的に評價する識者が表はれた。雜誌「中央公論」の四月號(平成十二年)に掲載された、加藤秀俊氏の「日本語の敗北」である。