言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

白石一文『君がいないと小説は書けない』を読む

2023年12月02日 11時38分58秒 | 本と雑誌
 
 白石一文の本を読んでゐると心が整理されていくのを感じる。
 ある小説がいいか悪いかは、読む人ぞれぞれであらうが、私にはこの「心の整理」といふ基準が最もしつくりとくる。むしろそれは小説に限らない。批評も歌や俳句もさうだらうと思ふ。それがいいか悪いか、この際それは問はないことにする。私にとつて読書とは私のために読むものであるからだ。
 本作は、一見すると白石の実話にもとづく随筆のやうにも感じた。自伝的作品となつてゐるが、「私」といふ第一人称で書かれてゐるフィクションといふよりも、小説といふスタイルを借りたノンフィクションといふ感じがする。三島由紀夫が自伝を書くのに『仮面の告白』と名付けたやうに(その味はひはまつたく異なるが)、白石が「野々村保古」といふ人物を借りて告白してゐるやうに思へた。
 だから、小説としては氏の他の作品と比べると世界が「狭い」。これは悪口ではない。「私」の実生活に片足をついてゐるから、実話の力をうまく相対化できずに「事実のパッチワーク」になつてしまひがちであるといふことだ。
 その「事実」はじつに面白い。しかし、その面白さがどこまでフィクションであるのかどうかは分からないが、一つ一つの事実が星座を作る「星」になれてゐるかどうかと言へば、やはり氏によつて書かれた他の小説群よりは弱い。しかし、これはこれでよいと思ふ。なぜか。私にとつては「心の整理」が起きたからである。
 あとがきを読むと、この小説は氏が金沢にゐた2016年から2018年に書かれたものだと言ふ。引越し好きの主人公の妻によつて、あるいは自分の代表作になるだらうと思つて書いた渾身の作品がまつたく評価されなかつたことによる自暴自棄が引き寄せた東京を離れるといふ決意によつて、移転してきた場所である。
 偶然だが、この小説の大半を私も金沢への行き帰りの列車の中で読んだのだつた。大事な約束を果たすために、片道5時間。往復10時間の時間をかけた旅であつた。雪は降つてゐなかつたが、道路の中央から温水が噴き出してゐて、冬の準備をしてゐた。そんな偶然から、この小説が私の今にとても親しみ深いものとして感じられた。

 親しみ深いと言へばこんなこともある。昨日、ある学生と面談をしてゐた。受験を控へた彼は、この冬休みにどんなことをすればいいのだらうかといふ問を発した。少し思ひつめたやうな声だつたので、模擬試験の結果を訊いた。結果はなるほど厳しいものであつた。しかし、私の口から出た言葉は「点数を求めると苦しくなるぞ」といふものであつた。言ひながら、全くその通りだなと思へた。
 何か具体的な数値のために今の時間があるのであれば、今の時間は手段の時間となる。そんな時間が楽しいはずはない。今は今として完結してゐなければならない。自分自身に手ごたへを感じられる時間にすべきである。そんな話をした。
 そして、今この小説のあとがきを読んで、こんな言葉があつた。

「遠い昔、私は『目に見えるものだけを追いかけていると、人は自らを失う』と書いたおぼえがある。当時からの確信は、年々歳々、より強固なものとなってきている。」
「悠久の歴史の中でほんの一瞬の生しか与えられていない私たちが、途方もなく巨大な宇宙と渡り合うには、自らの意識の中に宇宙をも飲み込むほどの『永遠』を育てなくてはならない。」

 かういふことを考へ、かういふやうに生きようとしてゐる作家がゐるといふことを、私は素直に感謝してゐる。そして、さういふ作家に出会ひ、読み続けられることを素直に喜んでゐる。
 「目に見えない」「永遠」を意識できる人を育てたい。作家にも批評家になれさうもないが、さういふ意識で人に接してゐる。


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