言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

2013年の終戦記念日

2023年08月15日 19時48分46秒 | 評論・評伝
 宮崎にゐる。義父の一周忌法要を無事終へて、ほつと一息。ただし、お盆と重なつたので、迎へ火、送り火をお墓と自宅前とで行ふ。それから家の前には新盆の家だけが提灯を灯しておくといふ習慣がある。
 すべてはお寺の指示で、A4用紙3枚にわたつて書かれた段取りにしたがつて行はれる。曹洞宗の檀家が全てこのやうに行つてゐるのか、あるいはこのお寺だけが行つてゐるのかは定かではない。しかし、もう何十年も、葬式を出した時にはかうしてゐるのだと言ふし、お盆の行事もまたこのやうにしてゐたと家内は言ふ。
 かういふ慣習が何によつて維持され信じられてゐるのか、私はひとへに住職の仏様への帰依にあると予感するが、残念ながらそれは感じられなかつた。ここでは書けないが、新盆の読経に来られた時に実に残念な言葉を残して次の檀家に行かれた時、本当に情けないと感じた。
 となれば、義父の信心こそが、この慣習を維持し、その娘に(つまり私の家内に)その必要性と意味とを伝へたのであらう。
 それにしても、かういふ一連の行事(例へば、迎へ火送り火)は、大都会では行はれまい。そもそもマンションでは不可能だ。お墓も近所にある訳ではない。つまりは、信仰の熱心さといふ点では、大都会では期待すべくもない。しかしながら、人は集まり街は栄へてゐる。逆に熱心にお祀りをする地域からは人が出て行き、街は沈んで行く。信仰の熱心さと経済的繁栄とは関係ないのはじじつであるが、何か解せないものがある。先祖を大事にせよとは誰もが言ふが、そのことに合理的説明を求められても、「慣習だから」といふ理由だけで人はいつまで実践するだらうか。
 お墓もいらない、葬式もいらない、といふ世代が増えてくるのは自然の流れであるが、それに対して在来仏教は何もしないのだらうか。
 末法といふ言葉がふつと浮かんで来た。
 そんな時に起きたのが、戦争と災害と飢饉とである。さういふ次元では信仰の熱心さと現実とは何か関係があるとも言へるやうな気がして来た。
コメント
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