言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

父逝く

2021年06月27日 10時18分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 書かうか書くまいか迷つたが、私事の書き留めとして残しておかうと思ふ。

 先週の土曜日、六月十九日に父が92歳で亡くなつた。その週の初めにそろそろとケアマネジャーから知らせを受けてゐたので、重い空気を抱へながら一週間を送つてゐた。

 老人ホームでの看取りであり、コロナ禍もあつて出向いてもガラス越しに話すことしかできなかつた。大腿骨を骨折した昨年からは三カ月に一度経過観察のために通院の引率をしてゐたが、それが唯一共に過ごせる時間だつた。会ふ度に痩せていき、「飯がまずい」と嘆いてゐたが、それではと思ひ食べたいものを聞き、そのいくつかを準備したが、結局食べる量は少なかつた。携帯電話で「〇〇を送つてほしい」と言はれるので、早速買つて送ると、ケアマネジャーから丁重に送らないでほしいとの電話がある。「本人が食べたいと言つてゐるのですよ」と言ひたかつたが、のどに詰まらせて何かあれば責任を負へないのだらうし、いくらこちらが「何があつても責任は問ひません」と伝へても、それを信じるわけにもいかないのであらう。

 最期は点滴と少々の水だけで過ごしてゐたやうだ。亡くなる三週間前に一度だけ無理を押して父のゐる部屋に入らせてもらつた。さらに痩せてゐた。体を起こして数言話ができたが、横になりたいと言つて寝てしまつた。「飯がまずい」と言つてゐたが、もう何もあげることはできなかつた。

 足元にはその日の新聞が置かれてゐた。テレビもその時には見てゐられたといふ。政治好きでよく政治討論を見てゐた。そのくせ選挙には行かないのだから学生時代の私は父を軽蔑してゐたが、思想的には私と同じもののやうで楽しく論じ合つてゐた。それを横で見てゐた母が、「お前が帰つて来て、かういふ話をしてゐるお父さんが嬉しさう」と言つてゐたのを思ひ出す。

 

 先週の今日、二〇日が本葬だつた。家族葬で行つたが、山梨から住職に来ていただいた。時宗西念寺の若い僧侶であるが、とてもいいお経をあげていただいた。声明のゆつたりとして大きな響きが、広い会場に家族だけがゐる空間を豊かさに満たしてくれたやうだつた。ありがたかつた。父の魂が救はれたやうに感じた。たつぷり一時間、読経は止まることなく続き、時折不信心な私にも分かる南無阿弥陀仏の念仏が繰り返された。

 父子のつながりは、か細いやうでゐて決定的なやうな気がする。還暦を間もなく迎へるといふ年齢になつて、どうしやうもないその血のつながりを深く感じてゐる。

 父よ、また会ひませう。合掌

コメント
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