言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

白洲正子『心に残る人々』を読む

2021年04月25日 09時39分15秒 | 本と雑誌

 

 

 時事評論石川の最新号を読んでゐて、渋沢栄一のことが気になつてゐた。それで渋沢栄一のことを食後の団欒の時間に家内に話すと、話が膨らんだ。ヤクザが作つた武士社会(徳川)に「こんな社会はおかしいぜ」とイチャモンをつけたのが渋沢で、ところが別のヤクザ(薩長)が政権を取つたからそれに文句をつけようとしたら、そのヤクザからスカウトされて、結果的には政府になんかゐられるかといふことで、経済界に身を投じたのが渋沢だといふところに話が落ち着いた。二人の間で疑問になつたのが「西郷さんつてどういふ役割だつたんだらうね」といふことだつた。

 九州出身の家内も、そこに六年ゐた私も西郷びいきである。同じく薩摩つぽの大久保は能吏ではあるし、近代の礎を築いた者としての壮絶な生き方には同情も寄せるが、人物は好きではない。それにたいして西郷の断念の深さは実利を無視したところに根差してゐるから敬愛する。彼は時代を超えてゐる。さういふ人物が外発的な、無理矢理の日本の近代には必要な重しであつた。大久保は近代化を成し遂げるためには十分に働いたが、西郷はそれを支へるのに必要な土台を築き上げたのである。では渋沢とはどういふ存在か。もちろん、大久保の側であらう。十分に働いたのである。

 さて、そんな会話は団欒の後の、夜の眠りによつてすつかり忘れてしまつてゐたが、今朝書棚の整理を始めようとふと手にした本書をめくつてゐたらたまたま渋沢栄一が出てきた。何とも不思議な感じである。ほんの15頁ほどのエッセイだから、朝飯前に読んでしまつた。続けて小林秀雄、正宗白鳥、岡本太郎と私自身の関心事に応じて読み始めたが、とても面白かつた。

 小林秀雄の無邪気、正宗白鳥の飄逸、岡本太郎の演じられた青二才の感じが、彼らの文章から感じたままであつた。白洲が白鳥を目の前にしての「会ふ必要がなかつた」との感慨と同じ印象である。

 渋沢とはもちろん、白洲氏は会つてはゐない。渋沢の残した文章から「心に残つた」ところを記したまでである。しかし、それも的確のやうに思へた。今更ながら、文章は鏡であると感じる。「心に残る人々」の姿が、どれも白洲正子のやうに感じたからである。それはもちろん悪口ではない。人が人と出会ふとは正しく自分との出会ひであると思ふからである。

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