言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ドナルド・キーンと福田恆存と

2019年02月24日 20時10分25秒 | 評論・評伝

 ドナルド・キーン氏が2月24日に亡くなつた。96歳であつた。テレビで見るキーン氏の日本語の、丁寧な口調が人柄を表してゐるやうに感じた。まつたくと言つてよいほど、その著作に触れることはなかつたが、一冊だけ大事にしてゐる本がある。それは『碧い眼の太郎冠者』といふエッセイ集である。谷崎潤一郎が序を記し、解説を丸谷才一が寄せるといふたいへんに豪華な中公文庫である。なぜその本を大事にしてゐるかと言ふと、福田恆存の放送劇『崖のうへ』に触れてゐたからだ。

碧い眼の太郎冠者 (中公文庫 M 11-2)
ドナルド・キーン
中央公論新社

 

 昭和29年十二月五日午後三時から四時に、中部日本放送で放送された戯曲について、極めて正確にその意味を書いてゐる。台詞が引用されてゐる。

 

  いつも、さう、あんたがそばにゐなくても、なにかの拍子で、

  こめかみのあたりに、ふと、さういふあんたの眼なざしを、

  まるで、いまかいまかと人の越度(をちど)を待つてゐる、

  天使のやうな悪魔の眼なざしを、きつとあたしは感じとる。

  そんなとき、いつもあたしは罪を犯してしまふ。

  いいえ、罪を犯したやうな気になつてしまふの。

  罪つて、さういふものでせう? ただの感じだけ。

  どんな悪いことをしたつて、それは罪ではない。

  あとで悪いと感じたとき、はじめてそれが罪になる。

   (これはキーン氏の引用そのものではなく、福田恆存の死後に刊行された『福田恆存戯曲全集』第三巻より引用した。内容は変はらないが細かい字句が異なつてゐる。福田が後年書き改めたものである。)

福田恆存戲曲全集 第三巻
福田 恆存
文藝春秋

 

 

 ここにあるのは、いかにも似非キリスト教的な罪の観念であつて、日本的なものではない。西洋人はかういふものより、孝行や人情といつた日本的なテーマを読みたいと思ふだらうが、それは違ふとキーンは語る。「罪の観念は現代の日本の生活や文学には大きな役割を果たしてはいないであろうが、それに対するあこがれがあるように思う」。事実、この放送は「思想の難しさゆゑに聴衆の賞讃を博する筈はないと考えられていた」が、再放送を求める投書が相次いだと言ふ。

 「孝行や人情といつた」純粋な「日本的なテーマ」を書いてもうまくはいくまい。なぜなら、「現代の日本は日本的ではないからである」。したがつて、「日本人がまじめに書けば、(中略)自ら日本的になると思う」といふのだ。

 福田恆存の文業が西洋に「あこがれ」でしかないのかどうか、それは今は論じない。しかし、福田が日本的であることを書かうとして書いたのではないが、書かれたものが極めて日本的であるといふのは正鵠を射てゐると思はれる。上に引用した「罪の観念」もどうみてもキリスト教の罪の意識とは異なつてゐる。キリスト教の罪とは「ただの感じだけ」ではないからである。しかし、似てはゐるが非なるものとしてしか書けない日本近代の宿命を自覚的に生きてゐた福田恆存は、すぐれて「まじめ」な思想家である。キーン氏が優れてゐるのは、さういふ福田の眼差しをとらへてゐるといふことである。

 

コメント (2)
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