言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

宗教と科学

2018年06月17日 16時57分33秒 | 評論・評伝

 矢内原忠雄の続きである。

 昭和23年の講演をもとに『社会科学大系』第6巻『宗教と神話』に寄せた文章である。

 「宗教」とあるが、もちろんそれは基督教のことである。科学が宗教によつて抑圧されてゐた時代があり、今日では宗教が科学によつて否定されることがあるが、それはいづれも間違ひである。「ただ理性的であり同時に非理性的なる人間は、人間本来の精神的構造に基き、同一真理の二つの面を別々の方法によりて探究するにすぎない」。つまりは科学と宗教のそれぞれの方法論で別の一方を否定しても意味がない。科学は科学的方法によつて探究すればよく、宗教は宗教的方法によつて真理を獲得すればよい。この当たり前のことが分からずに、科学こそあるいは宗教こそ心理を知る唯一の方法であるとするから問題になるのだ。これが矢内原の結論である。

 あとは、興味深い記述を抜き出しておく。

「コペルニクスその人は、迫害を受けなかつた。ケプラーはカトリック教科の庇護を受けて、大学教授の地位に留まりさへした。すなはち地動説も最初の段階に於いては、まだ教会から寛容に扱はれる余地があつたのである。然るにガリレオが望遠鏡を用いて、木星に四個の衛星があることを発見して以来、地動説に関する論争はのつぴきならなぬ線にまで追ひ込まれたのである。」

「聖書の字句に絶対的価値を認めることが独断である如く、科学の学説に絶対的価値を認めることも亦独断である。聖書の解釈も進歩し、科学の学説も変化する。この事は宗教と科学との関係に関し、我々にゆとりのある視野と考察を許容する。真理は宗教よりも広く、科学よりも広く、人間の無限の探究を許すもののごとく思はれるのである。」

アダム=スミスは「いはゆる『見えざる手』の何であるかを明らかにして居ないが、国富論自体の論旨より言へば、それは『分業』であらう。『見えざる手』云々の彼の言葉には理神論的秩序観の臭味があるが、併しスミスにありては、それは宗教的観念といふよりも、むしろ社会法則的な思想であつた。」

 コペルニクスやアダム=スミスについて、私がこれまで考へてゐたことがあつさりと否定された。学ぶべきである。

 

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