言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

大阪で友人に会ふ

2015年05月02日 08時56分50秒 | 日記
 連休中で、大阪に戻つてゐる。仕事の都合で本日中には愛知に戻るが、何人かの友人たちと交流した。友人と言つても、仕事の縁で大阪に来たから、仕事上の付き合ひしかない。元同僚ではあるが、仕事を離れても付き合へるのであるからやはり友人である。

 その職場(学校)の大変さはよく知つてゐる。エピソードを話題にするときはいつも笑ひ話となるけれども、その時はきつと深刻な場面であつただらう。昨日会つた友人とは、夜十時に梅田で待ち合はせた。クラブの帰りと軽く言ふが、頭が下がる思ひである。


 その友人がどうしても会ひたいと言つてくれたので、もう一人の元同僚とその時間まで雑談をしてゐた。会ふなり渡してくれたのが、下のTシャツである。私が中学一年と二年を受け持ち、その友人がその後引き継いでくれ、この度文系と理系とに分かれたので、「クラス解散イベント」としてサッカーをしたが、その時に作つたものだと言ふ。Tシャツの上にある写真にはそのメンバーが写つてゐる。そして何とTシャツの裏には、私の名前まであつた。あまりかういふ種類の話をブログで書くことはないが、ほんとうに嬉しかつた。学校を離れて二年。写真に写つた彼らの姿を見ると随分と大人びてゐることが分かる。当たり前のことだ。中二のやんちゃたちが高二の青年になつたのであるから。あの日々のことはこちらには記憶されてゐても、彼らには彼方の思ひ出であらう。もちろん、それが自然である。寂しくないと言へばウソになるが、執着することは自戒したい。そして今後の成長を祈るのみである。

 


 嬉しいことが突然訪れた。その日を待つことが生きることだと感じた。
コメント
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