言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

川上弘美を読んで、「バードマン」を観る

2015年05月01日 10時14分33秒 | 日記
猛烈に多忙だつた四月を終へ、ゴールデンウィークに休みをまとまつて取ることができた。今は川上弘美を読んでゐる。「境目」といふエッセイを授業で扱つたことがあるが、その強いがもろくなく、硬いが弾力のある不思議な文体の妙に興味を持つた。子供の頃の外国での生活でもしいじめの体験があれば、たいがいの人はいやな思ひ出にしてしまふだらうが、彼女は違つてゐた。むしろいじめられないために同化しなかつた自分を誇りにしてさへゐる気持ちの強さに惹かれた。彼女の作品は、一見すると軽くてふわふわした感じであるが、何か強いものを感じるのはきつとさういふ心のありやうから生まれたものなのであらう。

 代表作は、『センセイの鞄』であらうか。


 休みらしい休みが取れて、その上疲れも取れたら、映画を観ることにしてゐる。もちろん観たい映画があれば、そんな条件も飛び越えて観に行つてしまふが、最近は以上の条件を満たしてゐたとしても逆に観たいといふ映画がなくて何だかとても残念な気分でゐた。  それで久しぶりに少し気持ちが惹かれた映画があつたので、行つてみた。『バードマン』である。副題がつくが、思はせぶりな名称なので省く。

 かつて『バードマン』で主役を演じた俳優がその後鳴かず飛ばずになり、なんとか名誉回復をめざさうとニューヨークの舞台に立つ。精神的に病んでゐるので幻覚と幻聴にとらはれてゐるが、本人はそれを異能(霊能力)と思つてゐる。そして芝居が上演される。カメラワークが独特でカット割りのない撮影はそれだけでも魅力的であり、最後まで一気に観させる。そして、映画の中での舞台上演といふ入れ子型の構図であるから、俳優が役者として役を演じてゐる姿と、俳優が役者でない素の姿を演じてゐる姿とを観客に明確に伝へる必要があり、その上その俳優が役者としてではなく素の姿である姿を、同じ舞台の他の俳優やその舞台を観てゐる観客に感じさせないでゐる場面(これは映画を観てゐないと何のことかは分からないと思ふが)の演技力が素晴らしかつた。

 また辛口で遠慮容赦ない劇評を書く批評家に対して、元ハリウッドスターの主人公が映画俳優の自負について語る場面は、ハリウッドの映画人には痛快なものであらうが、あれはきつと当事者間の会話を借りた劇評家への皮肉であらう。

 劇中劇といふのは、それだけでも面白い題材である。『ハムレット』はその典型である。亡霊が出てくるのも、その影響かもしれないが、主人公の葛藤を統合失調症としてしか描けないのは不満であつた。アメリカ人の感性にたいするどうしやうもない違和感が、描き出されたニューヨークの風俗全体にもあつたが、最大の壁はこの葛藤の描き方である。病気にしてしまへば、それはもはや病人の問題である。その伝でいけば、ハムレットはノイローゼであり、多重人格であつたといふことになつてしまふ。それはもはや文学ではなく、症例でしかない。もし日本人がかういふ映画を撮るとしたら、かういふ映画にはならなかつたと思ふ。

 川上弘美のしなやかな振る舞ひの方に今の私は惹かれる。しかし、どちらが正統かは分からない。
コメント (2)
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