言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ニヒリズム、それとも何となくニヒリズム

2009年05月31日 16時08分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

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 村上春樹氏の待望の新刊が出た。本のフェティシズムといふほどではないが、大事な本は初版で欲しい。三日ほど前から近所の田村書店では売られてゐた。発効日よりも早い売り出しだつたから、初版はもうないかなと思つて昨日書店に行つたが、案の定なかつた。三日前に買つておけばと後悔した(まあ家族の協力で捜してもらへ、結果的に購入できたが、「本のフェチ」も高が知れてゐる)。

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本はまだ読んでゐない。このあとから読み始めるから、今日はその内容ではなく、前作(長編のである)の『海辺のカフカ』について書く。あの本には何となくニヒリズムが漂つてゐた。村上ワールドとはさういふものだと愛読者なら言ふのかもしれないが、「カフカ」といふ名前がその印象を一層強くした。カフカについての評言として私が気に入つてゐるのが、亡くなつた小説家の倉橋由美子のものである。それは「カフカは消しゴムで字を書いてゐる」といふものだ。作品自体が持つてゐるニヒリズムもさることながら、作家自身の生がニヒリズムに貫かれてゐることを的確にとらへてゐるやうに感じた。何の手ごたへも求めずに、何の成果も期待せずに、生きていくことの虚無感は、本物であると思つた。さういふ言葉を知つた上で村上氏の前作を読んだとき、私は「気分的ニヒリズム」だと思つた。そのタイトルが暗示するやうに、ヨーロッパに厳然として存在した「カフカ」のニヒリズムを日本の「海辺」に立つて村上氏が眺めてゐるだけであるやうに思へた(「メタファーの行方」第20回名古屋文化振興賞佳作)。海辺から見たカフカでしかない。

 さて、今回の作品がそこからどう抜き出てゐるか、作者の関心が私の関心と一致してゐるはずもないから、たぶんその問題はそのままであるだらう。しかし、村上氏は本物のニヒリズムに接近してゐるやうに私は思つてゐる。だから、読んでみたいと思つた。

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それにしても、現代日本の状況を指して、西部邁氏や佐伯啓思氏は「ニヒリズム」と言ふが、果たしてさうだらうか。村上氏のやうに内部に測鉛を降ろして、そこから見える世界を静かに少しづつ紡いでいく作業をしてゐる作家をしても、まだ何かしら現実の手ごたへを期待し、自らはどこか安全なところに避難してゐるやうな感じが否めないのに、絶対者を失ひ、精神の空白を否応なく見せ付けられ、生きていくことの困難を甘んじて生きてゐるやうな日本人がこの現代社会にさうさうゐるとは思へない。無気力と無関心とを単にニヒリズムと名づけたものにすぎず、「何となくニヒリズム」であらう。さうであれば、それと戦ふ「真正の保守主義」といふものも私はいぶかしく思つてゐる。両氏は、思想的対立者をアメリカニズムやらニヒリズムやら市場原理主義やらと名づけるのを得意とするが、さういふ割り切りがいかにも社会科学の専門家らしい表現で、現実をとらへるには少少バイアスがかかつてゐる。イズムと名づけて自分たちの思想を語れるほど、日本人は明瞭な考へ方をしてゐない。そのこと一つを考へてもニヒリズムが日本にあるとは言へまい。不況などの経済的な問題や病気などの健康問題や人間関係のもつれによる閉塞感などによつて苦しんでゐる人のうめき声は聞こえる。しかし、それは決してニヒリズムではない。なぜなら、依然として私たちは何かを信じた体験を持たないし、不信する覚悟を抱いた経験がないからである。いづれも生活の改善で事足りる問題だけだ。

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