言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「ローマ字を国字にせよ」と書いた新聞社が「障碍」だ

2009年05月17日 20時55分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 先日の産経新聞の「昭和正論座」で文藝評論家の故村松剛の「ローマ字化論の傷あと」といふ文章を読んだ。昭和五十年のものだから今から35年ほど前のものであるが、戦後の後遺症が今も残る私たちの精神には十二分に薬の役割を果たしてくれた。いま全文を要約することはしないが、よければ産経新聞のホームページで読んでみてほしい。

 日本の民主化を遅らせたのは漢字仮名まじり文などといふ難解な表記を使つてゐるからで、いつそローマ字化してしまへといふのが進駐軍の発想であつたことは広く知られてゐる。しかし、それにあの読売新聞も迎合し、次のやうに書いたといふのである。

「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存在する封建意識の掃討が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである」と。

 「封建意識」と言ふことばが出てくるのが時代を感じさせるが、お上がアメリカに代はつただけで、天下の大新聞の社説子の「封建意識」はまつたく「掃討」などされてゐないのがよく分かる。かういふ文章を社説に載せて平気でゐられるといふ意識は、権威主義ゆゑであり、「封建意識」とやらは強まるばかりなのである。かうしたおぞましい根性を内包したまま平気で「民主化を進めよ」などと言へるのは、日本のマスコミが言論をじつにいい加減に扱つてゐたか(いや今日でもさうであらう)の証拠である。お上にたてつくやうに見せかけて、じつはよろしくやつてゐるのである。

 近年、関岡英之といふ方が『拒否できない日本――アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書)を書かれた。大方の読者がアメリカ非難の書として取りあげてゐたが、「日本改造が進んでいる」のではなく、それを言ふのなら戦後60年も続いてきたのであり、「拒否できない日本」のあり方を見るならペリー以来の150年変はつてゐない。問題なのは「拒否できない日本」のあり方なのである。

 障碍はじつは日本である。「外発的」で「権威主義的」な権力者こそ近代化を迎へてゐないのだ。

 ところで、今月14日の朝日新聞の小さな記事に、今後選定される「新常用漢字表(仮称)」にたいする一般の人の意見が載せられてゐた。追加して欲しいといふ字は全部で302字。中でも「鷹」と「碍」とが際立つて多かつたといふ。「鷹」は、東京の三鷹市もあるし、「鷹揚(おうよう)」といふことばも日常的に使はれる。また、「碍」は、障碍の「碍」である。これまでは「障害者」などと書いてゐたが、「害」への違和感から「障がい者」などと書くことも増えてきたやうであるが、あれではをかしい。だいいち読みにくい。正字で「障碍」と書けばいい。庶民の国語感覚の方がまともといふことであらう。手放しで喜んではゐないが、うれしいニュースではあつた。

 権力を持てば人はそれを維持しようとする。政治家は第一権力、マスコミは第四権力である。せめてさういふ自覚をもつて権力を使へば正常化の道はあるが、いづれも自分達は非力であると思つてゐる。自己欺瞞といへばこれほどの自己欺瞞はない。障碍となつてゐるのは彼ら自身である。さういふ自覚なき権力はいづれ自分で自分の首を絞めることになる。

 どうしてかうなのだらう。

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