(承前)
梅棹氏の諸諸の論については、いくらでも批判したいことはある。近著には平成十六年に日本放送出版協會から出た『日本語の将来』なる物もある。その副題にはなんと「ローマ字表記で国際化を」と書かれてゐた。これには正直驚いた。今でもこんなことを書いてゐるのか、と。
「情報化する現代文明に適合する『日本語』のために」は、「漢字かなまじり」といふ書き方のシステムでは駄目であり、今後は適應出來なくなる。そのためには「ローマ字書き」しかないといふのだ。それをしなければ「新世紀の人類文明から脱落せざるをえないであろう」とまで言ひ切る厚顏無恥に對して、私はどう反應して良いか分からなかつた。
日本語の将来 (NHKブックス)
価格:¥ 1,218(税込)
発売日:2004-06-24
この主張をまともに論じる必要があるのかどうか、どういふ經緯でこの本が出るやうになつたのか定かではないが、「王樣は裸だ」と言へる人がもうゐなくなつてしまつたのであらう。そのことの憐れを感じてしまつた。平成六年に氏は、文化勳章をもらつてゐる。そして、同十一年には勳一等瑞寶章を受章してゐる。誰もがひれ伏す「一級の人物」となつた。しかし、やはり「王樣は裸である」。世紀の愚著――私はさう言ふ。管見によれば、良識ある書評子はどの媒體でもこの本について書評を書かなかつた。それだけが救ひである。
それから、昨年(平成十九年)の一月二十日の朝日新聞の「にっぽんの智慧スペシャル」といふ記事で次のやうに書いてゐた(これは「關西スクエア」といふ欄だから、東京では見られなかつたかもしれない)。對談者からの「これからの社會で何が安定を擔保するのか。大衆か、それとも最近はエリートの輩出を望む聲が強まってゐるが」との問ひに對して答へたものである。
「大衆、国民、民衆……表現は何でもええけど、それ以外に何がありますか。むろんエリートや原理主義も出てくる。日本のナショナリズムが先鋭化するかもしれない。でも、それは『思想』というものが本来はらんでいる危険な資質なのです。それを軌道修正して和らげるのが、大衆の力というものでしょう。先鋭化した思想も、しょせん大した力にはならないと思う」
何といふ自己欺瞞であらう。自分が思想家で、しかも大衆を信じる思想家ならば、即刻自著をすべて絶版にし囘收して筆を折るべきである。なぜなら、自身の「日本語ローマ字化」などといふ「思想」ほど「危險」で「尖鋭化した思想」はないからである。そして、そもそも大衆の力を信じるのなら、最初から出版しなければ良い。
思想家は、必ずしも啓蒙家である必要はあるまいが、それでも自らの主張を知つてもらひたいと思ふから本を出して世に問ふのである。最初から自説の「軌道修正」を求めて出版するのなら、大衆に受け容れられるものを最初から書けば良い。私には、自身の間違ひをいつでも修正する容易があると僞善者ぶりたいのであらうか。あるいは私は思想家であるが、そこらの「尖鋭化した思想」の持ち主ではなく、大衆思想家なのだとでも言ひたいのであらうか。もしそれを否定するのなら、即刻「日本語ローマ字化」論は取り下げてもらひたい。これほど「尖鋭化した」日本語破壞論はない。事實、自著すらローマ字で書いてゐないのである。自著の存在が、自著の主張を裏切つてゐるといふ事實をこの著者は知るべきである。
梅棹氏については、これで終はる。