三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 4

2017年05月30日 | 国民国家日本の侵略犯罪
5、「朝鮮報国隊」
①、「報国隊」とは
 1942年末ころから、日本海軍は、不足している労働力を補うために、朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に強制連行する策動を開始した。海軍の要請に応じた朝鮮総督府法務局は、1943年3月から、朝鮮各地の刑務所から残刑数年の獄中者を選んで「南方派遣朝鮮報国隊」を組織し、海南島に送り出しはじめた。
 日本支配下の朝鮮で、朝鮮人を「国民勤労報国隊」に入れ、「軍事上特に必要なる土木建築に関する業務」などを行なわせる策動は、アジア太平洋戦争開始直前の1941年12月1日からはじめられたが、このときには「法令により拘禁中の者」は除外されていた(「国民勤労報国協力令」第10条)。
 獄中者を「南方」の島(トラック島、テニヤン島など)に送って強制労働させる策動は、日本では1939年末から実行されたが、朝鮮では1943年春から始められた。アジア太平洋戦争開始後、労働力不足が決定的になった1943年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の強固な反抗を恐れたからだろう。軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも1943年春(3月1日)であった(8月1日施行)。

②、「朝鮮報国隊」虐殺
 1943年~44年に、朝鮮の各地の刑務所から、「南方派遣報国隊」(「朝鮮報国隊」)の隊員として海南島に送られた朝鮮人獄中者は、海南島で、鉱石採掘、飛行場建設、道路建設、橋梁建設などを強制され、おおくの人が命を失わされた。
 日本敗戦近くまでに生き残っていた「朝鮮報国隊」の人びとは、海南島南部の三亜市郊外の南丁村に集められ、軍用道路建設、軍用洞窟掘りなどをさせられたあと、1945年夏に殺された。その名は、まだ、一人も明らかになっていない。
 日本軍がいなくなってから、南丁村は、そこで殺された朝鮮人を悼んで、「朝鮮村」と改名された。「朝鮮村」には、いまも、殺された朝鮮人が埋められている。
 「朝鮮村」における朝鮮人大虐殺は、村人たちが目撃していた。しかし、その事実を、虐殺した者たちは、隠しつづけた。

③、いまも海南島に埋められている朝鮮人
  아직도 해남도 땅에 묻혀 있는 조선인
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2002年4月17日に金大中大統領に、2003年5月5日に盧武鉉大統領に、①「朝鮮村」に埋められている人たちの遺骨の死因を解明してほしい、②「朝鮮村」の遺骨の処遇を国家プロジェクトとして考えてもらいたい、と要請した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年11月から民族問題研究所および太平洋戦争被害者補償推進協議会と協議をかさね、「朝鮮村」の遺骨「発掘」の準備をすすめた。遺骨鑑定人も決まった。しかし、2004年2月の「発掘」直前に、地権所有者(韓国人)が突然拒否したため、中止せざるをえなくなった。
 2004年9月15日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本政府に「“南方派遣朝鮮報国隊”の真相究明」を文書で要請した。それに対して、10月6日付けで厚生労働省職業安定局総務課から、
   「厚生労働省では「南方派遣朝鮮報告(ママ)隊」に関する資料がないため、要請に対し
  てお答えすることができません」
という回答があったのみであり、なぜないのか、どのような調査をしたのか、まったく説明されていなかった。
 韓国民衆運動が深化していくなかで、2004年年2月に「日帝強占下強制動員被害真相究明等に関する特別法」が韓国国会で議決され、11月に「日帝強占下強制動員被害の真相を糾明し、歴史の真実を明らかにすること」を目的とする日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が国家機構として設置された。
 2005年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に、日帝強占下の海南島における朝鮮人強制動員・虐殺被害真相糾明を共同でおこなうこと、そのために、「朝鮮村」発掘をおこなうことを提言した。この提言に、真相糾明委員会は同意した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、真相糾明委員会の要請に応じて、2005年6月23日に、真相糾明委員会に対し海南島における日本軍の「朝鮮村」での朝鮮人虐殺にかんする調査請求をおこなった。この請求は同年9月2日に受理されたが、真相究明委員会は、いつまでたっても海南島での組織的調査をおこなおうとせず、  「朝鮮村」発掘の準備もしようともしなかった。
1998年6月から2006年4月まで30回あまり「朝鮮村」を訪問してきた紀州鉱山の真実を明らかにする会は、いつまでも放置しておくことができないため、やむをえず、2006年5月2日に「朝鮮村」の遺骨のはじめての科学的な「発掘」を、会だけで試みた。
 それは、「朝鮮村」における日本軍による朝鮮人虐殺の事実を確かめ、①埋葬様式、②埋葬状態、③遺体状態、④遺骨、⑤遺物状態、⑥遺物内容などを解析・鑑定・分析することによって、できるかぎり死因を特定し、朝鮮人であるかどうかを埋葬様式と埋葬状態の分析によってできるだけ明らかにし、公的機関による全面的「発掘」をうながすためであった。
 「朝鮮村」に埋められている人たちは、遺骨となって、日本の侵略犯罪の事実を証言している。
 「朝鮮村」での「発掘」は、日本の侵略史の発掘、日本の侵略犯罪の発掘であった。
 しかし、このときの「発掘」は、中国海南省政府によって中断させられた。
 2006年7月6日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』を完成させ、翌日東京の高麗博物館で試写会をおこなった。高麗博物館では、5月17日~7月16日に、特別展示『海南島で日本は何をしたか 戦時朝鮮人強制労働・虐殺 日本軍“慰安婦”』が開催されていた。
 2008年夏に、「朝鮮村」を横断する高速道路の建設が開始され、朝鮮人の遺骨が埋められている場所のすぐ近くが掘り崩され、建設工事用の建物などが建設され、遺骨の一部が、地表に現われた。
 2012年11月3日に「朝鮮村」を訪れたわたしたちは、朝鮮人が埋められていると思われる地域の7割~8割が厚い土砂で覆われ、壁で囲まれているのを見た。そこは、「秋苑陶芸園」という名がつけられ、樹が植えられ、大型の陶器の壷が置かれ、レンガ造りの登り窯、作陶場・展示場の建物がつくられていた。朝鮮人の遺骨の多くは、その下に埋められたままになっていると思われる。壁の外側の残された2割~3割の土地には、雑草が茂っていた。高速道路は完成し、「朝鮮村」は分断されていた。
 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(のちに、対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援委員会)は、「朝鮮村」の遺骨を放置し続け、「朝鮮報国隊」にかんする真相究明報告書も作成しなかった。
                                     佐藤正人
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