竹根東村の中心部の広場で、陳詒成さん(1936年生)は、つぎのように話しました。
“日本軍は近くの林村村、金牛流坑村などで多くの人を殺した。
この村の若者が何人か抗日部隊に参加した。
わたしは子どもだったのではっきりしたことは知らない。日本軍はこの村に何回も来た。
わたしの家も火で焼かれた。父は外国に働きに行っていていなかった。母は足が悪くて逃げれなかったが殺されなかった。
日本軍が村に近づくと犬が吠えるので逃げた。
わたしの父の兄は日本軍と戦って海口の近くの鉄橋の近くで殺された”。
林志芳さん(85歳)は、きっぱりした口調でつぎのように話しました。
“わたしは近くの渓西村からこの村(竹根村)に嫁にきた。
渓西村で日本軍は村の人をたくさん殺した。
わたしの家族は、母、姉、弟2人の5人家族だった。父はタイに働きに行っていた。タイから戻らなかった。
日本軍が渓西村に来たときわたしは7歳だった。怖かった。母は小さい弟を抱いてにげた。姉とわたしは走って逃げた。夕方で雨が降っていた。
叔母(父の妹)がこの村(竹根村)に嫁にきていたが、日本兵に7回刺されて殺された。36歳だった。
叔父は東南アジアに働きに行っていた。
日本人は良心がない。日本は悪い国だから、日本と国交回復をしないほうがいい”。
竹根東村の陳詒成さんは、日本軍は竹根村でよりも近くの林村村、金牛流坑村などで多くの住民を虐殺したと記憶していました。東閣鎮林村村、金牛流坑村での住民虐殺については、このブログの 2011年11月5日の「2011年秋 海南島で 8」、2015年4月3日の「金牛流坑村、林村村、石馬村で」をみてください。
わたしたちは、2014年秋に、林志芳さんの故郷の村である渓西村を訪ねました。そのときの記録は、このブログの2014年11月1日の「11月1日 文昌市東閣镇南文村、文教鎮渓西村、東閣镇林村村で」をみてください。
佐藤正人
“日本軍は近くの林村村、金牛流坑村などで多くの人を殺した。
この村の若者が何人か抗日部隊に参加した。
わたしは子どもだったのではっきりしたことは知らない。日本軍はこの村に何回も来た。
わたしの家も火で焼かれた。父は外国に働きに行っていていなかった。母は足が悪くて逃げれなかったが殺されなかった。
日本軍が村に近づくと犬が吠えるので逃げた。
わたしの父の兄は日本軍と戦って海口の近くの鉄橋の近くで殺された”。
林志芳さん(85歳)は、きっぱりした口調でつぎのように話しました。
“わたしは近くの渓西村からこの村(竹根村)に嫁にきた。
渓西村で日本軍は村の人をたくさん殺した。
わたしの家族は、母、姉、弟2人の5人家族だった。父はタイに働きに行っていた。タイから戻らなかった。
日本軍が渓西村に来たときわたしは7歳だった。怖かった。母は小さい弟を抱いてにげた。姉とわたしは走って逃げた。夕方で雨が降っていた。
叔母(父の妹)がこの村(竹根村)に嫁にきていたが、日本兵に7回刺されて殺された。36歳だった。
叔父は東南アジアに働きに行っていた。
日本人は良心がない。日本は悪い国だから、日本と国交回復をしないほうがいい”。
竹根東村の陳詒成さんは、日本軍は竹根村でよりも近くの林村村、金牛流坑村などで多くの住民を虐殺したと記憶していました。東閣鎮林村村、金牛流坑村での住民虐殺については、このブログの 2011年11月5日の「2011年秋 海南島で 8」、2015年4月3日の「金牛流坑村、林村村、石馬村で」をみてください。
わたしたちは、2014年秋に、林志芳さんの故郷の村である渓西村を訪ねました。そのときの記録は、このブログの2014年11月1日の「11月1日 文昌市東閣镇南文村、文教鎮渓西村、東閣镇林村村で」をみてください。
佐藤正人