5月5日、文昌市文教鎮立新村を訪ねたあと、午後5時過ぎに昌洒鎮東坡村に向かいました。
わたしたちは、2005年9月15日朝、海南島南部の三亜からバスを乗り継いで、文昌に行き、市販の海南島地図にない東坡村を探しました(旧日本軍の地図には、第15警備隊駐屯地の一つとして記載されていました)。
ようやく東坡村にたどり着いた時には、午後おそくなっていました。
この日、わたしたちは、黄循桂さん(1925年生)と黄循昌さん(1931年生)から、日本侵略期当時の話を聞かせていただきました。
このとき黄循桂さんは、
“日本軍は、わたしたちが住んでいる家を壊して望楼を建てた。望楼の高さは25メートル
ほどだった。東坡村には100人以上の日本兵がいた。共産ゲリラだといって、日本軍は連
行してきた人たちをたくさん殺した。殺害場所は、いま東坡小学校が建っているところだ”
と話し、望楼の図を書いてくれました(「日本が占領した時代に生きた人たちはいま」〈『パトローネ』64号〈写真の会パトローネ刊、2006年1月〉、および写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、写真の会パトローネ刊、2007年2月)54頁の「文昌市昌洒鎮 東坡村」をみてください)。
5月5日午後6時前に11年8か月ぶりに東坡村の入口の門をくぐりました。これまで何度か再訪しようと思いながら機会をつくることができませんでした。黄循桂さんと黄循昌さんは亡くなられていました。黄循昌さんが亡くなったのは2014年だったとのことでした。そのことを教えてくれたのは黄良波さん(1933年生)でした。
陽が沈みかける時間だったので、黄良波さんに翌日ゆっくり話しを聞かせていただく約束をして東坡村を離れました。
5月6日朝8時前に海口市内を出発し9時半に東坡村の黄良波さんの家に着きました。
黄良波さんは、つぎのように話しました。
“日本軍が来たとき、7歳だった。
日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の
人、林道欽先生は台湾人だった。林道欽先生は93歳のときに亡くなった。
日本軍がいなくなってから、島津先生は3回この村を訪ねて来た。最後に来たのは2008
年だった。
日本語学校で日本の歌を教えられた。「クニヲデテカライクツキゾ」、「トッタタズナガチ
ガカヨウ」、「キミガガヨウハ」。
日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつ
くった。わたしの家も壊されたので近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのはのはよその村の人たちだった。日本軍はすこし
離れた村の甲長に命令してその村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍
だった。
日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の200人以上の遺骨がてきたことが
あった」。
黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話しました。
“兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。村
の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
わたしは近くの昌吉村からこの村に来たが、高松先生を知っている。優しい先生だった。
わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん
働いていた。
黄良波さんと何金英さんに話しを聞かせてもらったあと、黄良波さんに、日本軍の兵営があった場所に案内してもらいました。
村の中心部にある黄良波さんの家から30~40メートル離れたところが慰安所があった場所であり、そこから50~60メートル離れたところが日本軍の入り口の門の柱があった場所でした。そこは、2005年9月15日にわたしたちが訪ねたことがあるところでした。その風景は、11年8か月前と同じでした。
門柱があったところの角を曲がって3軒目の家が黄循桂さんの家でした。空き家になっていました。その家の正面の樹が茂っている広い土地が、兵営と望楼があった場所でした。木々の間から文東中学校の校舎の一部が見えました。
兵営と望楼があった場所から村の中心部に戻り、さらに7~800メートルほど行ったところが、日本語学校のあったところでした。建物の跡はまったなく草地になっていました。
黄良波さんに別れ、文東中学校に行きました。
守衛に、この学校の敷地に埋められていた遺骨ついてたずねました。近くの村に住んでいるという40歳代のその人は、
“はっきりしたことはわからない。学校の塀をつくるときにたくさん遺骨がでてきた
らしい。遺骨がどうなったかは知らない。
子どものころ、むかし日本軍は鉄の籠に人を入れ、その中の人をこの付近で殺した、と
聞いたことがある”、
と話してくれました。 校庭に、簡単な学校の歴史を書いた文字板がありました。
そこには、この学校が1949年に開校したこと、開校当時の校舎の多くは旧日本軍の兵舎と望楼であったことなどは書かれていましたが、敷地内で日本軍に多くの人が殺害されたことも発見された遺骨のこともまったく書かれていませんでした。
午後12時50分ころ文東中学校を離れ、錦山鎮発山村に向かいました。
佐藤正人
わたしたちは、2005年9月15日朝、海南島南部の三亜からバスを乗り継いで、文昌に行き、市販の海南島地図にない東坡村を探しました(旧日本軍の地図には、第15警備隊駐屯地の一つとして記載されていました)。
ようやく東坡村にたどり着いた時には、午後おそくなっていました。
この日、わたしたちは、黄循桂さん(1925年生)と黄循昌さん(1931年生)から、日本侵略期当時の話を聞かせていただきました。
このとき黄循桂さんは、
“日本軍は、わたしたちが住んでいる家を壊して望楼を建てた。望楼の高さは25メートル
ほどだった。東坡村には100人以上の日本兵がいた。共産ゲリラだといって、日本軍は連
行してきた人たちをたくさん殺した。殺害場所は、いま東坡小学校が建っているところだ”
と話し、望楼の図を書いてくれました(「日本が占領した時代に生きた人たちはいま」〈『パトローネ』64号〈写真の会パトローネ刊、2006年1月〉、および写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、写真の会パトローネ刊、2007年2月)54頁の「文昌市昌洒鎮 東坡村」をみてください)。
5月5日午後6時前に11年8か月ぶりに東坡村の入口の門をくぐりました。これまで何度か再訪しようと思いながら機会をつくることができませんでした。黄循桂さんと黄循昌さんは亡くなられていました。黄循昌さんが亡くなったのは2014年だったとのことでした。そのことを教えてくれたのは黄良波さん(1933年生)でした。
陽が沈みかける時間だったので、黄良波さんに翌日ゆっくり話しを聞かせていただく約束をして東坡村を離れました。
5月6日朝8時前に海口市内を出発し9時半に東坡村の黄良波さんの家に着きました。
黄良波さんは、つぎのように話しました。
“日本軍が来たとき、7歳だった。
日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の
人、林道欽先生は台湾人だった。林道欽先生は93歳のときに亡くなった。
日本軍がいなくなってから、島津先生は3回この村を訪ねて来た。最後に来たのは2008
年だった。
日本語学校で日本の歌を教えられた。「クニヲデテカライクツキゾ」、「トッタタズナガチ
ガカヨウ」、「キミガガヨウハ」。
日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつ
くった。わたしの家も壊されたので近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのはのはよその村の人たちだった。日本軍はすこし
離れた村の甲長に命令してその村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍
だった。
日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の200人以上の遺骨がてきたことが
あった」。
黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話しました。
“兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。村
の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
わたしは近くの昌吉村からこの村に来たが、高松先生を知っている。優しい先生だった。
わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん
働いていた。
黄良波さんと何金英さんに話しを聞かせてもらったあと、黄良波さんに、日本軍の兵営があった場所に案内してもらいました。
村の中心部にある黄良波さんの家から30~40メートル離れたところが慰安所があった場所であり、そこから50~60メートル離れたところが日本軍の入り口の門の柱があった場所でした。そこは、2005年9月15日にわたしたちが訪ねたことがあるところでした。その風景は、11年8か月前と同じでした。
門柱があったところの角を曲がって3軒目の家が黄循桂さんの家でした。空き家になっていました。その家の正面の樹が茂っている広い土地が、兵営と望楼があった場所でした。木々の間から文東中学校の校舎の一部が見えました。
兵営と望楼があった場所から村の中心部に戻り、さらに7~800メートルほど行ったところが、日本語学校のあったところでした。建物の跡はまったなく草地になっていました。
黄良波さんに別れ、文東中学校に行きました。
守衛に、この学校の敷地に埋められていた遺骨ついてたずねました。近くの村に住んでいるという40歳代のその人は、
“はっきりしたことはわからない。学校の塀をつくるときにたくさん遺骨がでてきた
らしい。遺骨がどうなったかは知らない。
子どものころ、むかし日本軍は鉄の籠に人を入れ、その中の人をこの付近で殺した、と
聞いたことがある”、
と話してくれました。 校庭に、簡単な学校の歴史を書いた文字板がありました。
そこには、この学校が1949年に開校したこと、開校当時の校舎の多くは旧日本軍の兵舎と望楼であったことなどは書かれていましたが、敷地内で日本軍に多くの人が殺害されたことも発見された遺骨のこともまったく書かれていませんでした。
午後12時50分ころ文東中学校を離れ、錦山鎮発山村に向かいました。
佐藤正人