三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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文昌市抱羅鎮石馬村で

2017年05月21日 | 海南島史研究
 5月3日朝、海口を出発し、文昌市錦山鎮に入り、鑑山村の革命烈士紀念亭を訪ね、湖塘村で韓権畴さんに話を聞かせてもらい、上東山村で韓裕豊さんに話を聞かせてもらい、日本軍の民衆虐殺現場を案内してもらったあと、午後3時半過ぎに省道203号線を南に進み抱羅鎮に向かいました。 
 4時ころ、抱羅鎮の中心部に着き、謝春梅さんの家を訪ねました。前回謝春梅さんから話を聞かせてもらったのは、2014年10月29日でした(このブログの2014年10月29日の「10月29日 文昌市抱羅鎮石馬村で」をみてください)。
 謝春梅さんは、ベッドの上でした。昨年12月に部屋のなかで転んで腰の骨を折ったとのことでした。
 居合わせた石馬村の前村長の潘巍天さん、小学校教師の潘家球さんと石馬村に向かいました。
 牛がおおい草地や刈り入れ直前の黄色の水田のなかの道を進みながら、‘日本軍はこのような村を襲撃したのだ’と考えつつ、のどかな風景を眺めていました。
 石馬村の入り口には、前回訪ねた時にはなかった「出入平安 石馬村」と赤い文字で刻まれた大きな石碑が建てられていました。
 村に入り、潘家球さんの家で、犠牲者を追悼する碑のことなどについて話し合いました。
 潘家球さんは、「石馬村一九四二年正月十六日惨案死難村民同胞名単」をつくっていました。この名簿は、は、「〇〇一家6人」、「〇〇夫婦2人」という形式で書かれており、日本軍に殺害された村民ひとりひとりの名前が書かれていませんでした。
 潘巍天さんは、ひとりひとりの名の記録を数年前にはじめているので、潘家球さんのつくった「名単」と合わせてできるだけ正確でくわしい記録を今後つくることになりました。
 潘家球さんは、2015年6月25日付けで、「石馬村正月十六日惨案簡介」を書きあげていました。

 中共海南省委党史研究室編著『海南省抗戦時期人口傷亡和財産損失』(中共党史出版社、2011年刊)の12頁には、「1942年3月2日下午,日军“扫荡”文昌县抱锦乡石马村,杀死140余人,烧毁房屋380余间」と書かれていますが、同書の年表の「1942年」の部分にはこの記述はなく、「1943年」の部分に「2月19日,日军“扫荡”文昌县抱锦乡石马村,烧毁房屋100多间,杀死140多人」と書かれています。このいいかげんな記述は、2015年に発行された同書の改訂版でもそのままくりかえされています。
 中共海南省委党史研究室編『海南省重要革命遺址通覧』(「全国革命遺址普査成果叢書」第22巻。海南出版社、2014年刊)にも、「石马惨案」が1943年のことであったと書かれています(473頁)。
 2016年1月にだされた陈贻鴻讲述・陈如徳整理「侵琼日军最后的疯狂暴行:忆述文昌秀田村惨案」(『海南文史第26辑 琼崖抗日・海南解放』〈海南出版社〉)でも、「1943年正月元宵、日军侵犯抱锦乡石马村……」と誤述されています(94頁)。
 石馬村で日本軍が虐殺を始めたのは農歴1942年1月16日(普通歴3月2日)早朝でした。
   
                                   佐藤正人  
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