三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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石人血泪山

2014年05月16日 | 個人史・地域史・世界史
 4月18日夕刻長春に着き、午後10時過ぎにハルビンに着きました。
 4月19日から25日まで、山邉悠喜子さんらとともに、ハルビン、長春、遼源を歩き、26日から5月1日まで、1人で、白山、集安、長春を歩き、5月2日に長春から日本に発ちました。
 4月19日から21日まで、ハルビンの侵华日军七三一部队罪证陈列馆,黒龙江省博物馆,安重根义士纪念馆,东北烈士纪念馆,黒龙江省社会科学院などを訪ね、22日から23日まで,長春の東北陥落史陳列館,伪满皇宫博物院,南大営旧址陳列館,侵华日军100部队(“关东军军马防疫给水部”)遗址などを訪ね、24日から25日まで遼源鉱工墓陳列館,日偽統治時期遼源炭鉱死難鉱工墓記念碑,方家墳万人坑,遼源高级战俘营旧址,遼源煤矿坑口などを訪ね、26日から5月1まで、白山市石人鎮第石人村の血泪山,通化县集安市の好太王碑、太王陵、丸都山城、国内城、集安博物館、鴨緑江にかかる二つの橋などを訪ね、長春を再訪しました。
 
 4月26日朝、6時10分遼源発白山行きのバスに乗り、東豊、梅花口、輝南などを経由して、10時20分にバスの終点に着きました。
 そこは、バスターミナルではなく、街の一角の路上だったので、バスの運転手に石人の万人坑に行きたいのだがどうしたらいいか、尋ねました。
 行き方をくわしく説明してもらっているところにいた人が、「自分がこれから行く途中に石人行のバス乗り場がある」と言って、車で案内してくれました。
 途中、その人は、「安倍をはじめ日本政府は日本が中国でどんなことをしたのか知らないはずはないのに知らないふりをしている」と話しました。
 その人のおかげで、10時35分に石人経由江源行のバスに飛び乗ることができました。
 バスの運転手に「万人坑の近くで降ろしてほしい」というと、どこからいつなんのために来たのか…などいろいろ訊ねられました。
 かれは、「大石人の万人坑の碑は、いまは崩れそうになっている。しかし、日本人が必ず行くべきところだ」と話しました。
 山腹を切り開いた曲がりくねった山道を通ってバスが小石人村への分かれ道を左折してまもなく、バスが止まり、運転手が左側を指さすので見ると、30メートルほど先に、「血泪山」と書かれた石碑がたっていました。11時10分でした。
 そこでバスを降り、すぐ近くの小さな食堂で遅い朝食を食べました。その店で、村の名を訊ねました。大石人村でした。
 それから3時半まで、「血泪山」とその周辺を歩きました。
 食堂をでて、「血泪山」と書かれた高さ3メーそばにトルほどの自然石の石碑の前を過ぎて20メートルほど緩やかな坂の道を登っていくと、1984年3月25日に渾江市人民政府と通化砿務局が建てた「石人血泪山」という石碑と、2011年6月16日に白山市人民政府が建てた「石人血泪山」という石碑が並んで建っていました。白山市人民政府が建てた碑のそばには、
   「石人血泪山,原名“浴淋塔山”,面积约50万平方米。1983年11月24日由吉林省人民政府公布为
   重点文物保护单位。1937年,日本帝国主义强行在石人开矿,被奴役含恨死去了1万余人劳苦矿
   工,均被日寇埋葬于此,故称“血泪山”。1963年在此建阶级教育展览馆一处,并建参观纪念址8处,
   总中有高15米的纪念碑一座,上书“日伪统治时期死难矿工纪念碑”。向下有百级台阶,入口处有三
   个跪伏的罪魁生铁铸像」
という説明版がおかれており、そのななめ前に、後ろ手に縛られた3人の銅像が置かれていました。その1人の右膝には「罪魁 刘棠齢」、1人の右膝には「罪魁 杨秀坤」と刻まれていました。もう1人の名は摩滅していました。
 3人の銅像の正面に「血泪山」の頂上に至る長い石段があり、山頂に「日伪统治时期 死难矿工纪念碑 一九六四年五月十日建立」と刻まれた高さ10メートルほどの碑が建てられていました。「死难矿工纪念碑」の土台の表面のコンクリートがかなり剥落しており、碑の本体を包んでいるコンクリートの壁に亀裂が入っていました。碑の下部に、赤いペンキで「危险! 请勿靠近!」と書かれてあり、たしかに上部から飾り石が崩れ落ちてきそうになっていました。1964年に建立されてから50年間、あまり補修されてこなかったようです。
 「日伪统治时期」に、碑の後ろに広がる谷間に、多くの死者が埋められたようです。遺体は、いまも埋められているのだと思います。

 夕刻、白山市内に戻り、翌日、“日伪统治时期七道沟铁矿死难矿工纪念碑”のある通化县七道沟か通化县兴林镇(白家堡子惨案纪念地)に行くために、七道沟か兴林镇までの交通手段を探したのですが、タクシー以外はみつからなかったので、方針を変えて集安に行くことにしました。と
 白山駅発午後9時19分発通化行きの火車に乗り、10時22分に着きました。定員130人ほどの客車に乗っているのは16~17人ほどでした。
 乗車券ははじめ聞き違いかと思ったのですが、3元(52円ほど)でした。
 この日は、通化の駅前で誘われた人の旅館で泊まりました。20元でした。家族経営の部屋数が10部屋の小さな旅館でした。
 翌朝7時32分発の火車で集安に向かいました。あとで知ったのですが、通化・集安間の火車は、一日一往復でした。

                                           佐藤正人
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