三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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遼源で 1

2014年05月24日 | 個人史・地域史・世界史
 4月24日朝8時半に、山邉悠喜子さん、李茂杰さんらといっしょにマイクロバスで長春から遼源に向かいました。
 高速道路で伊通満族自治県、金州を通って遼源に10時40分に着きました。
 午後、遼源鉱工墓陳列館、日軍遼源高級戦俘営旧址を訪ねました。遼源鉱工墓陳列館では、1993年から2006年まで館長をしていた劉玉林さんに、日軍遼源高級戦俘営旧址では、館長の魏東さんに案内してもらいました。
 翌25日朝8時半から、遼源に住む劉玉林さん、魏東さん、曲道独さん、遼源市人民政府办公室の李雅琴さんと、長春から来た李茂杰さん、山邉悠喜子さん、和田千代子さん、小林節子さん、金靜美さん、わたしの11人で話し合いました。長春から同行してくれた吉林省外事服務中心の庞志刚さんが通訳してくれました。
 その席で、劉玉林さんは、
   「遼源には、6か所の万人坑がある。1963年に、そこのひとつを、遼源市鉱物局の労働者
   1300人が掘った。
    半年間くらいかかった。発掘の記録、図面はは作らなかった。あとの5か所は掘ってい
   ない。
    火葬場も1か所、掘った。発掘すればするほど規模が大きくなり、3000くらいの墓も発
   掘した。
    発掘したときはそんなにきれいに並んでいなかった。長期的に保存するため、いまのよ
   うな形にした。
    社会科学院が保存について指導した。
    1979年~1985年には、管理する人はいなかった。わたしは、1993年に、人事異動でこ
   こに来た。
    来てみると骨は腐っているものもあった。手足の骨は腐って、ほとんど形がなくなって
   いた。
    いま遺骨がおかれているところの背骨の位置などはほとんど変わっていない。発掘され
   た当時のままだ。
    当時は経済条件がよくなかったので、それ以上のことはできなかった」。
と話しました。
                                      佐藤正人
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